62 代わりに
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「あれは…………!」
氷室はその光景に驚愕の色を浮かべた。
日頃から滅多に揺らぐことのないその表情も、今は驚きと恐れが垣間見えていた。
そして同時に、深い罪悪感と後悔が彼女を包んだ。
アリスの気持ちを尊重し、一人で行かせた。
危険だとわかっていても、無茶だとわかっていても、その気持ちを汲んで踏み出したい脚を堪えた。
この戦いに、D8との衝突に介入するべきではないと自分に言い聞かせて。
戦いに慣れていないアリスの挑み方は実に危なっかしく、目が当てられなかった。
使いこなしきれていない力を精一杯振り回して、しかし届かず傷ついていく様は見るに耐えられなかった。
けれど足を伸ばせば制止の声が飛ぶ。そこには覚悟と懇願が込められていて、氷室にはその先へ踏み込むことができなかった。
しかしこうなってしまった今は、それを後悔してしまう。
アリスの気持ちばかりを想うのではなく、やはりその身の安全を優先するべきだったと。
後で叱責を受けようとも、彼女の存在を大事にするべきだったと。
「アリスちゃん……!」
D8に追い詰められたアリスの空気が一変していた。
内なる力の一部を引き出していた彼女は、ある種の神々しさをまとっていた。
膨大な力は白く煌びやかで、神聖な空気を感じさせ、不可侵の清らかさを持っていた。
しかし今は違う。アリスを取り巻く力がどす黒く重々しいものに変貌を遂げていた。
底の見えない闇の沼に引きずり込まれたような冷たい気配。
全てを飲み込み、全てが集って一緒くたに混ぜ込んだような、果ての見えない何か。
この重く冷たい気配は、どことなく転臨した魔女が放つ醜悪なものに類似していた。
どす黒い闇に塗られてような無言の圧力に、氷室は身震いした。
あそこにいるのは自分がよく知る花園 アリスであるはずなのに、まるで何も知らない赤の他人を見ているように感じられた。
あまりの重圧に氷室が動けないでいる中、そのアリスと対面しているレオは、アリスの口から放たれた予想だにしない言葉に固まっていた。
「お、お前は────」
『そこを
再度、アリスの口からアリスの声で、しかし別の者の言葉が放たれる。
それは、今まさにアリスに馬乗りになって驚愕で顔を引きつらせている、レオに向けて告げられたものだった。
剣を振りかぶる手を止めてだらりと下げ、レオは目の前にいるアリスの顔を恐怖を抱いてまじまじと見つめた。
アリスの顔で、アリスの口で、アリスの声で話すそれ。
けれどその冷徹な目は、落ち着きと余裕に満ちた表情は、蔑んだ氷のような言葉は、決してアリスのものではなかった。
そして何より、彼女自身がまとう禍々しく重い力の圧力が、それはアリスとは違うものだと告げていた。
『
「……!」
繰り返された二度目の言葉は最早命令だった。言葉の重みは、決して逆らうことを許さない絶対的なものに満ちていた。
何よりそれを直接受けたレオに、選択肢など用意されていなかった。
レオは直感的に身の危険を感じ、すぐさまアリスの上から飛び退いて距離をとった。
解放されたアリスはゆったりと満足そうな笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
その笑みは年頃の少女が浮かべるものとは到底思えない、高位の存在、あるいは超越者などの隔絶した者が浮かべるような、高圧的な笑みだった。
「お前が、どうして……!? お前は今、封印されてんじゃねぇのかよ……!」
『あら、つれないことを言うのねぇ。別にこうやって顔を出すことくらい、私にはわけないわ。別に封印だって、私がその気になればどうにでもなるものだし。ただあんまり乱暴なことをすると
両手に双剣を握りしめ、力の限り喚くように叫ぶレオに、アリスは落ち着いた口調で答えた。
自身の服に付いた汚れを軽く手で払い、そして身に刻まれた傷を見て溜息をついた。
次の瞬間、見る見るうちに傷が塞がり、残ったのは穢れのない白い肌だった。
「
『ちょっと交代するために、今は眠ってもらってるわ。だって、あなたが怖いこと言うんだもの』
「じゃあお前は今完全に、ドルミーレか……!」
『まぁ、表層に顔を出しているだけだけれどね』
歯を食いしばって苦々しげに言うレオにアリス────ドルミーレは楽しそうに微笑んで頷いた。
ドルミーレ。花園 アリスの心の奥底に眠る『始まりの魔女』。
今彼女は本来の身体の持ち主であるアリスの意識を押しのけ、その体を意のままに動かしていた。
『あなたも酷いわね。大切な親友に向かって殺す、なんて。この子が可哀想』
「うるせぇ。誰のせいだと思ってやがる……!」
ドルミーレは胸に手を当ててアリス自身を指し、わざとらしく眉を寄せた。
その姿にレオは込み上げる怒りを、剣を握りしめることでなんとか抑えつけた。
そんなレオを見て、ドルミーレはゆったりと面白がるような笑みを見せる。
『私、この子に死なれては困るの。基本的にはこの子の生き方に関与するつもりはないけれど、こんな惨めな姿を晒されてしまっては、私も黙ってはいられないもの。それにこの子もあなたを倒すための力を欲していたみたいだし、ちょうどいいかなと思って』
ドルミーレは手にしている『真理の
それはレオに対する敵対心というよりは、面白いおもちゃで遊ぼうとしている子供のような雰囲気だった。
しかし、自分に害するものを徹底的に排除するという明確な意思もそこにはあった。
純白であったはずの『真理の
「俺を、
『ちょうどいいでしょう? あなたも私を殺したいんだし。あなたのご要望にお応えして、殺し合いをしましょう。この子にはそんなことできないから、私が代わりにしてあげる』
漆黒の剣の鋒をレオに向け、ドルミーレは穏やかな口調で、しかし冷たい言葉を放った。
どっぷりと重苦しい闇のような圧力を伴うその言葉はレオを押し潰さんばかりだった。
しかしそれでもレオは、力強く足を地を掴み、折れぬ眼差しをドルミーレに向けた。
「……上等だ」
力を使いこなしていなかったアリスであれば勝機もあったが、今レオに相対しているのはその力の根源であるドルミーレ。
アリスの体を借り、一時的に意識の表層に出ているだけとはいえ、その実力、振るえる力の強大さは桁外れだろう。
それでも、彼にとって倒すべき
例え敵わないとしても、逃げるわけにはいかなかった。
彼にとって、アリスを救うことが全てなのだから。
『まぁ私とあなたでは、戦いになるとは思えないけれどね』
しかしドルミーレは、覚悟を決め戦う意思を見せたレオに対し、黒い笑みを向けた。
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