38 呼び方
私たち以外誰もいなくなった公園で、私たちはしばらくお互いを確かめ合うように抱きしめあった。
そうやって心を落ち着け合うように、強く強く。
しばらくそうしていて、やがてどちらともなく腕を放した。
そうしたら何だか妙に気恥ずかしくなったりして、二人で向かい合いながらも照れ隠しのように少し俯いたりした。
凍らされて身体が冷え切っていた氷室さんだったけれど、それ以外に目立った外傷はなった。
だから身体を温めて簡単な回復魔法を使えばダメージといったダメージ残らなくて、すぐに立ち上がることができた。
酷い怪我をしていなくてよかったと、そんな姿を見て心からホッとして胸を撫で下ろした。
ロード・スクルドは一旦引いてくれたけれど、それでも完全に氷室さんを見逃したわけじゃないし、いつまた襲ってくるかわからない。
だから少なくとも今夜は一人にさせられないと、私はうちに泊まることを提案した。
氷室さんは少し戸惑った顔をしつつも、特にそれを否定することなく静かに頷いてくれた。
本当はレオのことが気掛かりだったけれど、今の私には何もできない。
それに今は氷室さんの安全と休息が最重要だし、彼の件はアリアに任せてある。
だから今は、目の前にいる氷室さんのことを優先することにした。
「あの、花園さん……」
氷室さんの手を固く握って家までの道のりを歩いていた時、氷室さんがおっかなびっくりな視線を向けてきた。
少し俯き気味に、前髪で目元を隠しながら上目遣いで私を見てくる。
「なぁに?」
「花園さんは大丈夫……?」
急にどうしたのかと一瞬首を傾げそうになって、すぐに氷室さんの言わんとしていることがわかった。
ロード・スクルドの登場で氷室さんを心配する方に頭が回ってしまっていたけれど、それ以前はレオと一悶着あった。
過去の親友との軋轢で私が傷付いていないかを、氷室さんは心配してくれているんだ。
「あぁ、うん。取り敢えずはね。アリア────D4に連れられた時少し話をしてね、一応彼女とは和解……っていうのはわからないけど、できたよ。でも、D8とは……」
「そう……」
「大丈夫だよ。きっとなんとかなる。私が思い出せれば手っ取り早いんだけど、なかなかそうもいかない。でも、それでも昔は親友同士だったんだし、心は通じ合っていると思うんだ」
心の奥底で、私たちはきっと想い合えている。
立場や状況や、色々なもので今は隔たりがあるけれど、わかり合えないなんてことはきっとない。
私はそう信じているから。
「心配してくれてありがとう。それよりもさぁ氷室さん。私、一つ気になることがあるんだけれど……」
「…………?」
にっこりと笑顔を向けてから、今度は少しニヤケ顔に切り替えてまじまじと見つめると、氷室さんはキョトンと首を傾げた。
「さっきはさ、何度か『アリスちゃん』って呼んでくれたのに、また『花園さん』に戻っちゃったの?」
「────!? そ、それは、その……」
私が少し意地悪くジトっとした目を向けて尋ねると、氷室さんはビクッと目を見開いて、恥ずかしそうに更に俯いてしまった。
私の視線から逃れるように俯いて、けれど手はこれでもかというくらいぎゅっと握ってくる。
実は今までも何度か、『アリスちゃん』と呼んでくれていたことには気づいていた。
切羽詰まった時、咄嗟の時、氷室さんは私のことをいつもの『花園さん』ではなく『アリスちゃん』と呼ぶことがあった。
咄嗟に出るのだから、もしかしたらそっちの方が呼びやすいのかなと思っていたけれど、いつもほんの一瞬のことだし、それでも普段は『花園さん』だから、特に突っ込まないでいた。
でもさっきみたいに何度も呼びかけられてしまうと、流石に言ってみたくなってしまった。
本当は私のこと、『アリスちゃん』って呼びたいんじゃないのって。
「私は、その……」
恥ずかしそうに俯いて口をもごもごとさせる氷室さん。
その戸惑っている様子は予想通りだったし、見ていて可愛らしいけれど、良心がちょっぴりチクリとした。
ここまで全力で照れられてしまうと、何だか虐めている気分になってきてしまう。
「べ、別に私はどっちでもいいよ!? 氷室さんの好きな呼び方で。氷室さんに呼んでもらえるのなら、私はどっちも好きだし」
「…………ええ」
欲を言えば『アリスちゃん』と呼んでほしい気持ちがある。
でも内気で奥手な氷室さんにそれを強要するのは悪いし、第一私が下の名前で呼んでいないから強くも言えない。
私だって氷室さんのことを『霰ちゃん』と呼びたいけれど、そのためにはもっともっと親密にならないといけない気がしてなかなか踏み出せなかった。
氷室さんが心を許してくれていないわけではないけれど、まだもう少し砕かないといけない壁があるように感じて。
でもそんなことは急ぐことじゃない。
私たちは友達なんだから、一緒にいれば時間はいくらでもある。
心の距離は、その中でゆっくりと縮めていけばいいんだ。
氷室さんは少し複雑そうな顔をしていたけれど、私の顔をそっと見て、平静を取り戻していた。
でもあの恥ずかしがりようは、私にはバレていないと思っていたのかな。それとも無意識だったりして。
そんな会話を挟みながら私の家まで戻ってきた。
氷室さんはもう何度もうちまで来てくれているし、家に結界を張ってくれたりもした。
だから勝手知ったるといった感じで私に手を引かれてついてくる。
「…………!」
玄関を潜った所で氷室さんが急にビクリと立ち止まった。
ぐいっと腕が突っ張られるのを感じて振り返ってみると、氷室さんは普段通りのポーカーフェイスのまま、でも何かに戸惑っているようにキョロキョロしていた。
「氷室さん、どうかした? ────あっ」
そう尋ねたところで、私には一つ思い当たることがあった。
玄関にはお母さんの靴が並べられている。
氷室さんは私がこの家で一人で生活をしていることを知っていたし、だから今日も家には誰もいないと思っていたはずだ。
だから、私のものではないであろう靴が置いてあってびっくりしたのかもしれない。
「あのね、実は今日お母さんが出張から帰ってきたんだ。 ごめん、言ってなかったね」
「……そう」
私が慌てて言うと、氷室さんは静かに相打ちを打った。
何故だかお母さんの靴をまじまじと見つめている。
「親いたら気まずい……よね。あ、それなら、氷室さんがダメじゃなければ、氷室さんの家に私が泊まりに行こうか?」
「いいえ、大丈夫。私は……気にしない、から」
友達と二人きりの気が抜けるお泊りだと思っていたら親がいたとなれば、不意をつかれた気分だろうと代わりの提案をしてみたけれど、氷室さんは首を横に振った。
特に気にした様子も見せずに、中へと歩み寄ってくる。
まぁ氷室さんが気にしないのならそれでいいかな。
「おっかえりアリスちゃーん! お母さんが美味しい晩御飯を作って待ってた────」
玄関の音を聞きつけたのか、お母さんがリビングの方から飛び出してきた。
帰ってきた時のスーツから緩やかな部屋着に着替えていて、お母さんらしいエプロン姿だった。
いつもの朗らかなテンションで飛び出してきて、ニコニコのルンルンで私に飛びつこうとして、けれど氷室さんのことを見つけてピタリと止まる。
「た、ただいまお母さん。あのね、今日、友達を泊めたいんだけど……」
「………………氷室、霰……です……」
時が止まったように停止するお母さんに、おずおずと紹介すると、氷室さんはおっかなびっくりお辞儀をした。
そんな氷室さんのことをお母さんは固まったまま、まじまじと見つめた。
何かいけない所でもあったかなと不安になっていると、お母さんはポツリと口を開いた。
「うっそ、アリスちゃんのお友達……!?」
何に驚き慄いているのか、戸惑いを隠せない表情で氷室さんを見てから、急に一転してパァと笑顔を咲かせ、急に氷室さんに飛び立ついてぎゅっと抱きしめた。
「えー超かわいい!? お人形さんみたーい! アリスちゃんこんな可愛い子とお友達だったの!? もぅ早く言ってよー! 今までうちの娘が世界一可愛いと思ってだけど、もしかしたら違ったかもって思うくらい可愛いー!」
「ちょっとお母さん! 氷室さん困ってるから!」
黄色い声を上げて氷室さんに抱きついて、力の限り愛でるお母さん。
それに対して氷室さんは戸惑いを隠せず、そのポーカーフェイスを動揺で揺らして、どうしたものかと目を白黒させていた。
ちなみにこの母親は、さらっと自分の娘が世界一可愛いと思っていたなんてとんでもないことをカミングアウトした後、それをあっさりと覆す発言をしたんだけど。
嬉しいような恥ずかしいようなムカつくような。
氷室さんが美人で可愛いのは私が一番知っているから、そこに対抗意識はないけれど。
とりあえず、力の限り愛でるお母さんを氷室さんから強引に引き剥がした。
お母さんはぶーぶー文句を言いながら、もの寂しげに氷室さんから離れた。本当に、子供かこの人は。
「霰ちゃんね、よろしく。今日はゆっくりしていってね」
けれどささっと切り替えて、大人の余裕を含んだ優しい笑みで氷室さんに笑いかけた。
お母さんの強襲に戸惑っていた氷室さんだったけれど、すぐにいつもの平静を取り戻した。
静かに頭を下げる氷室さんを見て、とりあえず大丈夫そうだと私は胸を撫で下ろした。
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