8 不器用なハグ

 夜子さんに改めてお礼を言って四階の部屋を出た。

 もっと聞きたいこと、突っ込みたいことはあったけれど、夜子さんも話したくないことがあるようだったし、今聞いた話だけでも気持ちの整理は大変なのでやめることにした。


 自分にできること、やらなければいけないこと。

 私はもっとそういったことに目を向けないといけない。

 私に心を託してくれている友達、そして私の心と繋がってくれている友達。

 みんなのために、私は確実に前へと進んでいかないといけないんだ。


 帰る前に透子ちゃんに一目会っていこうと五階へと上がった。

 ボロボロの建物の中で浮いている小綺麗な扉。

 それを潜って入った部屋の中は、私が以前見たものとは異なっていた。


 以前は部屋の中心に水槽のような大きな筒があって、その中に満たされた液体の中に透子ちゃんが浮かんでいた。

 まるでSF映画のような光景で、またその姿があまりにも儚げでよく覚えている。


 けれどその筒は見る影もなく消え去っていて、その代わり部屋の中心には真っ白なシーツのベッドがあった。

 まるで病院のように清潔感のある純白の内装の中に、穢れの一切ない真っ白なベッドが一つ。

 そしてその中で穏やかな眠りについている透子ちゃんの姿があった。


「透子ちゃん……」


 私は思わずその名前を口に出して駆け寄った。

 目を開かないその姿はただ眠っているようで、もう長いこと目を覚まさない眠り姫とは思えない。

 その傍に屈んで布団の中に手を忍ばせて手を握る。


 確かに感じる柔らかく温かな感触。

 透子ちゃんはちゃんと生きている。

 前から体のダメージは大方回復できていると夜子さんは言っていたし。

 きっと大掛かりな治療は終えたから、こうしてベッドで寝ているんだ。


 身体のダメージは回復して、でも透子ちゃんは目覚めない。

 その理由が本当に身体から心が抜けているんだとしたら。

 それが私の中にいるもう一つの心なんだとしたら。

 やっぱり透子ちゃんを助けられるのは私しかいない。


 でも、そのもう一つの心が透子ちゃんのものだという確証はなかった。

 確かに透子ちゃんは夢の中で助けにやって来てくれた。

 それに透子ちゃんはあの時、繋がりを辿ってやってきたって言っていた。


 でも一つ引っかかるのは、もう一つ思い当たる節があること。

 私が心の奥底に落ちてドルミーレと会った時、夢の中、そして晴香だったものに立ち向かった時、私に語りかけてくれた誰か。

 あれは確かに『誰か』だった。今思えば『誰か』の心だったのかもしれない。

 夢の中では氷の精のように淡く輝いていたあの人も、私の中にいる『誰か』の心なのかもしれない。


 もちろん夜子さんが気付かなかっただけで本当は全部で三人の心が私の中にはいるのかもしれない。

 でもなんだか不安だった。本当に透子ちゃんの心が私の中にいてくれているのかって。

 私の中にいてくれているのなら助ける手立てはあると思う。

 でももし、どこかわからない所で彷徨っているとしたら……。


「ダメだ、私が弱気になっちゃ……」


 今度は私が透子ちゃんを助けるって決めたんだ。

 私が弱気になって諦めるようなことがあってはダメだ。

 もし透子ちゃんの心が私の中にいなかったとしても、今度は私が繋がりを辿って見つけてあげればいい。導いてあげればいい。


「絶対、絶対私が助けるからね」


 その艶やかな黒髪の頭をそっと撫でて、私は決意を口にした。

 滑らかで柔らかな感触は、触れているこちらもとても心地よかった。

 静かに乱れなく目を閉じているその姿は、それこそお伽話のお姫様のように可憐で儚げだった。


 その顔をまじまじと見ていると、心がズキズキと痛んだ。

 これは私自身の気持ちなのか、それとも私の中にいる心が感じているものなのか。

 どちらかはわからなかったけれど、それでも透子ちゃんが目を覚まさなくて辛い気持ちは確かだった。


「また来るね」


 いつか二人で笑い合えることを願いながら、私は小さく手を振った。

 静かに眠るその姿を目に焼き付けて、心に刻みつける。

 もう私のために誰かが犠牲になるところを見たくはない。

 あの時透子ちゃんが私を助けてくれたら、今のこの私に繋がっている。

 だから私が絶対に助けてあげるんだ。


 部屋を出て、今度こそ廃ビルを後にしようと階段を下る。

 全体的にボロボロなこのビルは階段もなんだか心許ない。

 崩れてしまうようなことはないだろうけれど、手摺はもげてしまいそうだし所々欠けたり壊れたりしているし。


「ちょっと、待ちなさいよ」


 足元を確かめながら慎重に降りている時だった。

 夜子さんのいる四階を通過して三階まで降りてきた時、静かな廃ビルの中で呼び止める声が突然響いた。

 私は飛び上がりそうになりつつも、恐る恐る声のした方に振り返る。

 するとそこには、不機嫌そうに眉を釣り上げた千鳥ちゃんがいた。


 目が覚めるような派手派手しい金髪をきゅっとツインテールに結んで、小柄な身体を大きく見せようと胸を張っている。

 腰に手を当てて私を睨みつける様は、怒っているわけではなさそうだけれど、でもやっぱり不機嫌そうだった。


「あ、千鳥ちゃん。昨日は、ありがとうね」

「え? あぁ、うん……」


 できるだけ懸命に笑顔を作って言うと、千鳥ちゃんは虚をつかれたのか目をパチクリさせてからおずおずと頷いた。

 それから我に返って少し目を釣り上げると、ずんずんと私の目の前までやってきた。


「……ほら」


 私の目の前までやってきたは良いものの何故だか顔を背けた千鳥ちゃんは、けれど私に向けて大きく腕を広げてみせた。


「…………?」


 その行動が何を意味しているのか私にはわからなくて、思わず首を傾げてしまった。

 そんな私を横目で見て、千鳥ちゃんキーッと喚いた。


「い、良いから来なさいよ! ほら!」


 少し顔を赤らめて叫ぶ千鳥ちゃん。

 私のことを直視できず横を向いたままなのに、横目で突き刺すように睨んでくる。

 でもそれで千鳥ちゃんが何をしようとしているのかなんとなくわかって、それがちょっぴり意外で私は思わず笑みをこぼしてしまった。


「な、なに笑ってんのよ! 早くしなさいよ! 張っ倒すわよ!」

「ごめんごめん」


 私を見咎めて更に声を荒らげる千鳥ちゃん。

 怒っている風なのにその腕を下ろそうとはしない。

 私は笑みを噛み殺しながら謝って、その腕の中に身体を収めた。


 私の目線ほどしかない身長の千鳥ちゃんが私にぎゅっと抱きついた。

 抱きしめてくれようとしているんだろうけれど、身長差と体格差でしがみ付いているようになってしまっている。

 それでも力強く締め付けてくれる感覚が嬉しくて、私もぎゅっと抱きしめ返した。


「……なんだか、逆になってない?」

「アンタ本当に口が減らないわね。このまま感電死させて欲しいならそう言いなさい」

「ごめんごめん。こういうこと言うのは、千鳥ちゃんにだけだから」

「余計タチ悪いわ」


 その温かさで思わず口から出た軽口に、千鳥ちゃんはいつものようにぶーぶーと返しながらも、でもその口調はどこか優しかった。

 小柄な千鳥ちゃんだけれど、必死に私を抱きしめてくれるその腕にはちょっぴりお姉さんのような温もりを感じる。

 細い腕が巻きつく感触、サラサラな金髪ツインテールが頰をくすぐる感触が、なんだか微笑ましく感じて私の心を柔らかくほぐしてくれた。


「ありがとね、千鳥ちゃん」

「…………別に」


 顔は見えなくても、千鳥ちゃんが口をツンと尖らせているだろうことはわかった。

 照れ隠しのように眉を釣り上げて、難しい顔をしているに違いない。


「……ごめん、アリス」

「え?」

「私、上手いこと何にもできないから。昨日のことだってそうだし、それに今だってアンタに気の利いたこと言ってあげらんない」

「別にいいよ、そんなの……」


 気持ちはしっかり伝わってる。

 不器用な千鳥ちゃんなりに、私のこと気遣ってくれてるんだって。

 その気持ちを確かに感じて、それがとても心強いんだ。


「……まぁ、アンタならわかってると思うけどさ、一応言っとく」


 千鳥ちゃんは私の肩に顔を埋めて、もごもごと言った。


「私はアンタの……友達、だからね」


 照れ臭そうに言うその言葉が嬉しくて泣いてしまいそうで、私はそれを誤魔化すように強く強く抱きしめた。

 苦しいって背中をバンバン叩かれたけど、それでもしばらくは千鳥ちゃんを放さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る