3 形あるもの
「え…………?」
自分が生きてきた痕跡を自ら消した。
そんな残酷なことをしたなんて到底信じられなかった。
他人の手でそれをされたとしても十分に辛いことなのに、それを自分でなんて、そんなこと。
「……どういう、ことなんですか……?」
「……まぁアリスちゃん、こっちに来て、ほらここに座りなさい」
呆然と、けれどなんとか口を開いて質問を続ける私を、夜子さんは少しだけ眉を下げて手招きした。
そんなに大きくはないボロボロのソファの中で左に詰めてスペースを空けると、そこをポンポンと叩く。
まさか夜子さんに座ることを勧められるなんて思っていなくて少しびっくりした。
でもそんなことよりも晴香のことで頭がいっぱいで、でも執拗に手招きする夜子さんに私は仕方なく歩み寄った。
「うわぁ汗びっしょりだ。健康的でいいけれど、それじゃあ風邪を引いちゃうね」
近付いた私の手を引いて半ば強引にソファーに座らせると、肩に腕を伸ばして夜子さんはそう言った。
空いた左手で私の頭にポンと触れると、一瞬で全身の汗の気持ち悪さは引いていって、汗に濡れていた服もパリッと乾いた。
綺麗になった私の身体を確認すると、夜子さんは緩く微笑んで私の肩をガシッと掴んで引き寄せた。
夜子さんは結構小柄な人のはずだけれど、流石大人というべきか、それなりに包容力を感じた。
ふわふわとした髪が頬を撫でて少しくすぐったい。
なんだか夜子さんらしからぬ行動に思えた。
特に言葉にはしないけれど、これは夜子さんなりの気遣いなんじゃないかと思った。
こうやって身を寄せることで、寄り添ってくれようとしているのかもしれない。
「……晴香ちゃんはさ、自分が死んだ後、アリスちゃんに迷惑をかけたくなかったんだと思うよ。晴香ちゃんの死に様は公にはできないことだ。一般人には説明できないことだ。しかし人が一人いなくなればこの世界では大騒ぎだろう? その騒動の負担を、アリスちゃんや周りの人にかけたくなかったんだろうさ」
「そんな……! そんなこと晴香が気にすることじゃないのに。それは私たちが……残された私たちが……」
「そういうことにすら周りの人間を気遣ってしまうのが、晴香ちゃんって子だったんじゃないのかい?」
「それは……でも……」
それは行き過ぎにも思えた。
確かに晴香は、自分が辛い時だって他人のことを考えられる子だったけれど。
でも自分の命を懸けるだけじゃなくて、自分が生きてきた痕跡すらなくしてしまうなんて。
「察するに、晴香ちゃんはアリスちゃんを守ると決めた時から全ての覚悟を決めていたんだろう。そして、君の負担にならないようにと考えていたんだろう。アリスちゃんがこれから立ち向かっていくことの足を引っ張ってはいけないと」
「それでもこれは、あまりにも寂しすぎる。晴香のことを誰も覚えてないなんて。晴香みたいないい子を、誰も……」
誰の思い出にも残らなかったら、本当に晴香は消えて無くなってしまう。
それほど寂しいことはない。思い出してすらもらえないなんて、それはあまりにも残酷だ。
「それが晴香ちゃんの覚悟で、そして愛だったということじゃないかな。アリスちゃんに全身全霊をかけたのさ。文字通りね」
夜子さんは静かなトーンで、優しい声色で言う。
私の肩をぎゅっと握るその手からは、何だか優しさを感じた。
大人の、温かな手だった。
「……でも、晴香は魔女としてあんまり強くないって言ってました。そんな滅茶苦茶な魔法、本当に晴香が使えたんですか?」
「確かに晴香ちゃんは適性率が低かったし、普段はそんな大掛かりなことはできなかっただろう。でも死の直前の侵食率がほぼ百パーセントの状態ならば、多少の無茶はできただろうさ。まぁ普通は、そんなタイミングで魔法を使おうと思う子なんていないだろうけどさ」
確かにそれはレイくんたちが言っていた。
死際は侵食率が高くなるからその分強力になるって。
その力を戦うことに使う意味はなくても、そういう使い方をすれば普段できない無茶を敢行することができたのか。
「ただまぁ、完全とは言えなかったみたいだね」
「え?」
「現に私たちは晴香ちゃんのことを覚えている。おそらく咄嗟の行使であることと、元々あまり実力がなかったことも含めて、全ての記憶や痕跡を消せたわけではなさそうだ」
確かに言われてみればそうだった。
創や晴香の両親は忘れてしまっているみたいだけれど、私はしっかりと晴香のことを覚えている。それに夜子さんも。
「魔女や魔法使いのような、魔法を扱う者にはその魔法は通用しなかったと見ていいだろうね。その者が持つ魔力が魔法を受け付けなかったんだろう。だから多分、
「そっか……」
私が晴香のことを忘れてしまっていなくてよかった。
私のために沢山のことをしてくれた晴香を、私が忘れてしまっては世話がない。
それに少しでも晴香のことを覚えてくれている人がいてくれるのなら、まだギリギリ救いはある。
それでも、他のみんなからは忘れられてしまっている事実は、心を抉られるような苦しみがあった。
「アリスちゃんはアリスちゃんで辛いと思うけれど、晴香ちゃんの覚悟だと飲み込んであげるべきだ。それを嘆くのではなく、その気持ちを持って前に進んであげることこそが、晴香ちゃんに報いることになるんじゃないのかな」
「そう、ですよね……」
理屈はそうだ。晴香の親友である私は、誰よりも晴香の気持ちを汲んであげなきゃいけない。
晴香がそうしたいと思ったんだから、望んだ通りにしてあげるべきなんだ。
でも辛くて悲しくて苦しいのは確かで。
晴香を失った悲しみに追い打ちをかけられたような気分になってしまう。
「それに、晴香ちゃんの心はアリスちゃんがちゃんと受け止めてあげていたじゃないか。他の誰が晴香ちゃんのことを忘れてしまっても、アリスちゃんはその胸の中に確かに晴香ちゃんを感じることができる。晴香ちゃんが何よりも大切に思った君がそれをできるんだから、それは救いになると私は思うよ」
「でもそれは気持ちの問題というか……だって晴香はもう……」
「何を言ってるんだいアリスちゃん」
弱々しく夜子さんを見上げると、夜子さんはにへらっと笑った。
そして私の胸元を指先でトンと叩いた。
「アリスちゃんは確かに晴香ちゃんを感じているはずだよ? 心というのは形あるものだ。そしてアリスちゃんはその心を手繰り寄せ、繋ぎ合わせることができる。君なら確かにその心の存在を感じ取れるよ」
「晴香の、心を……」
確かにあの時、あの成れの果てを滅ぼした時、晴香の心が飛び込んできた気がした。
そして確かに心に温かいものが灯った気がした。
あれは、本当に私の心の中に晴香が来てくれたってことだったのかな?
「そうだとも。それは気持ちの問題でも言葉の上のことでもない。事実として、アリスちゃんの中には晴香ちゃんの心がいるはずだ。肉体は消滅し人々の記憶から消え去っても、アリスちゃんの中には確かに晴香ちゃんが存在している。それが晴香ちゃんが確かにこの世界に生きていた証明であり、アリスちゃんがそれを抱いていることが何よりの救いだろうさ」
会えなくなったとしてもいつだって一緒だって約束した。
私の心にずっと寄り添ってくれるって約束した。
それは言葉通りの意味で、本当の意味で、今私の心には晴香の心が寄り添ってくれているんだ。
確かに私の胸の中に、晴香はいるんだ。
そう考えると、ほんの少しだけ楽になった気がした。
晴香がいなくなってしまったこと自体は変わらないし、この残酷な現実も変わらない。
でも一番近いところにいてくれるのなら、私はまだ何とか耐えていける気がした。
「集う心を繋げる力。それこそがアリスちゃん自身の、アリスちゃんだけの力だ。この世界でどう思われているかは知らないけれど、心っていうのは実在するんだよ。だから晴香ちゃんは今だってアリスちゃんの中で息づいている。それを忘れちゃいけないよ」
夜子さんの言葉はただの慰めではなくて、純然たる事実を述べているようだった。
心は確かに実在する形あるもの。
私の中には、晴香の心があるんだ。
それは少し不思議な感覚で、でもそれはとても心強いと思えた。
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