40 涙
「D7、あなたまさか────」
その先を口にすることはできなかった。
そんなこと、私の思い違いだと思いたかった。
私の愚かな妄想だって。
「あぁ、お姫様。俺は悲しいぜ。アンタは変わっちまった。仕方ねぇよな、何にもし知らねぇんだから。でもやっぱり俺は悲しい。泣けるぜ」
D7は顔を歪めてそう囁く。その言葉に狂気はない。
そこに込められていたのは、確かに純粋な悲しみだった。
「アンタは優しいお姫様だった。俺を認め、クリスティーンを認めてくれた。だからアンタを殺したくなかった。でもよ、こうなっちゃ仕方ねぇよ。魔女になってアンタは変わっちまったんだから」
「……あなたが私の何を知っているのか知らないけれど、私はずっと私だよ。昔からずっと私はこんなんだ」
弱くて臆病で。でも、そんな自分が嫌なんだ。
「アンタが知らないだけさ。みんな知ってる。アンタは忘れた事すら忘れてる。そうなりゃ初めからないのと同じだもんな」
「忘れた事すら、忘れてる……?」
その私がお姫様になった話が本当だとすれば、私には私の覚えていない空白の過去があることになる。
でもそんなものはないと私はずっと思ってた。
でももし、空白があることにも気づいていなかったのなら。
「いいんだ。アンタが悪いわけじゃない。今も昔もアンタは悪くない。時間が、環境が、アンタを取り巻くものが悪いのさ」
「でも、私は……」
あり得ないと言い切りたい。
もしそれを認めてしまったら、私はもう私自身を信じられなくなってしまうから。
「だからさ、お姫様。ケリをつけようぜ。俺はアンタを殺したい。アンタは生き残りたい。二つに一つだ。昔も今もない。あるのはその事実だけで十分だろ」
「……そう、だね」
形のないものに惑わされてはいけない。
確実ではないものに揺らいではいけない。
私は今の私を信じて、今の私を慕ってくれる友達を信じよう。
「これで証明になる。クリスティーン、お前は生きているんだって。誰も俺たちを否定しない。結果さえ出せばな」
クリスティーンが奇声を上げる。
大気を震わせる甲高い声。それはどこか悲鳴のようで。
見た目をどんなに再現していたとしても、その声は
作り物の顔。作り物の瞳。作り物の声。
美しいものを、美しかったものを再現しようとして、でもやはり本物には届かない。
そんな憐憫が、彼女からは感じられた。
あれは
「タスケテ」と、やはりクリスティーンは繰り返す。
その懇願は彼女の気持ちなのか。はたまた意思などないのか。
どちらにしても、やはりそれは痛切な悲鳴にしか聞こえない。
「
クリスティーンが跳ねる。
美しい髪やドレスをはためかせて、私目掛けて飛びかかる。
「タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテ」
降りかかるクリスティーンを、飛び退いて辛うじて避けた。
けれど彼女のスピードに対して、その程度の回避は全く意味を成さなかった。
「タスケテタスケテ────」
瞬時に距離を詰められる。
その強靭な手が私の首を鷲掴みにして、そのまま力強く地面に叩きつけられた。
「うっ────」
背中全体を打ち付けられた衝撃と、喉を締め上げられている苦しみに鈍い呻き声が出た。
「タスケテ、タスケ、テ────」
私に馬乗りになったクリスティーンは、空いた方の拳で私の頰を殴打した。
首から上がなくなったかと思った。
その強烈な衝撃に、一気に意識が持っていかれそうになる。
けれど、目の前に広がるものが私の意識を覚醒させた。
私に馬乗りになって、覆いかぶさるクリスティーン。
その綺麗な髪を垂らし、作り物の綺麗な顔を近づけている。
作り物の顔に、人形の顔に表情なんてない。
ただ美しさだけを固定された顔。
その瞳もただのガラス玉のようで、そこに生気は感じられない。
なのにどうしてだろう。その瞳はまるで────
「タスケテタスケテタスケテ────!!!」
二度目の殴打。頭がクラクラする。
何をやってるんだ私は。戦わないといけない。守らないといけない。
私は魔女だ。魔法を使って、氷室さんみたいに戦わないと。
いくらイメージしても、いくら思い描いても何も起きない。
こういうピンチの時に、タイミングよくうまくいくものでしょ普通。
今までできなかったことが、こういう時にできるもんでしょ。
「タスケテ、タス、ケテ……タスケテ────」
ポツリと、私の頰に一滴の雫が落ちた。
それがクリスティーンの流している涙であるということは、その瞳を見れば明らかだった。
作り物の顔は微動だにしない。
作り物の瞳は揺れていない。
けれどその乾いているはずの瞳は、まるで生きた人間のように潤んでいた。
「クリスティーン……あなたが、泣いているの……?」
「タスケテタスケテタスケテタスケテ」
それは彼女自身の涙なのか。人形である彼女の。
それとも、その中に眠るその心臓の持ち主なものなのか。
その辺りはわからない。私は何も知らない。
でもきっと彼女も苦しんでいるんだ。
死にながらにして、生きた傀儡として扱われることに。
私に力があれば、D7を打ち倒すだけの力があれば、クリスティーンもまたその呪縛から解き放たらかもしれないのに。
「タスケテ。タスケテ……オネガイ────」
その無機質な口から溢れる壊れた声。
抑揚のない機械のような、掠れた声。
でもその言葉には確かに感情が込められていた。
そこには確かに、クリスティーンの気持ちが。
「タスケテ……オネガイ────!!!」
氷室さん。善子さん。二人を守りたい。みんなを守りたい。
大切な友達。私の掛け替えのない友達。
戦うと決めたんだ。抗うって決めたんだ。最後まで足掻くって決めたんだ。
魔法が使えないとか、知らない。
お姫様の力がなんなのかわからないとか、そんなの知らない。
戦う力が欲しい。守る力が欲しい。
あの時、振った力が私の中にはあるはずだ。
教えてよ。本当に私がお姫様だというのなら。
かつて私が、あの国を巡って戦ったというのなら。
私の知らない私。力を持つ私。お願いだから……!
「タスケテ!!!」
溢れる涙が私の頰を濡らす。
クリスティーンも助けを求める。
彼女を救えるのもまた、この痛烈な叫びを受けている私だけ。
あり得ないはずのこの涙を受けている私だけ。
今彼女を救わなければ、きっと一生────
「カレ、ヲ────エド、ワード、ヲ────タスケテ────────」
三度目の殴打が、私の意識を完全に奪った。
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