25 夕暮れの図書室

 放課後。

 今日はとても平和な一日だった。昨日が慌ただしかっただけかもしれないけれど。

 朝も昼休みも本当に何事もなくて、もちろん正くんとは会わずにすんだ。


 朝と同じように、晴香と創は日直の仕事があるということで、私はそれが終わるまで図書室で待つことにした。

 ここ数日色々あったから、ゆっくり本を読む余裕なんてなかったし、久しぶりの読書に少し心が踊った。


 本の虫とまでは言わないけれど、色々な物語を読むのは好き。

 特に図書室みたいな静かな場所で読むと、その世界観に没入できて、自分自身が物語に入り込んだような気持ちになる。

 それが私はたまらなく好きだ。


 図書室に入ってみると、いつも通りの静かな空間が広がっていた。

 中には、私以外には図書委員の当番の人しかいなくて、まるで図書室を独占しているみたいな気持ちになって余計にわくわくした。


 私は窓際の席に座って本を広げた。

 窓からほんのりと差し込む、夕日になりかけた日差しが心地好い。

 外からわずかに聞こえてくる部活の音も丁度いい。


 私は、昨日レイくんが勝手に読んでいた本の続きをゆっくりと読み始めた。


 どれくらいの時間が経ったのかわからない。

 一度読み始めてしまうと、没頭してしまって周りのことに気付きにくくなってしまう。

 晴香と創には図書室で待っていることを伝えてあるから、終わったら迎えにきてくれると思うし、まだそこまでの時間は経っていないはず。


 ふと窓の外に目をやると、さっきよりも日が落ちていて、燃えるようなオレンジ色の日差しが差し込んでいた。

 まだもう少し読んでいられるかなと、再び本に視線を落とした時だった。


 誰かが私の向かいの椅子に腰掛けた。


 私が図書室に来た時は私以外に誰もいなかったし、席には大分余裕があったはず。

 仮にそれから生徒が増えていたとしても、図書室の席が満席になるなんてことはそうそうない。

 それなのにわざわざ向かいの席に座るなんて、私に何か用なのかな。

 そう思って顔を上げてみると、正くんが穏やかな笑みを浮かべて私のことを見ていた。


「────!」


 思わず飛び上がりそうになった。というか飛び上がった。

 机に脚を思いっきりぶつけてかなり痛かったけれど、でもそれどころではなかった。


 なぜ、どうして、何があったらこうなるの?

 いつもチャラチャラして不真面目で、常に女の子を侍らせて遊び歩いているような正くんが、図書室にいるということそのものがまず違和感だった。

 そしていつも強気で傲慢で不遜な正くんが、まるで恋人を慈しむような穏やかな顔をしていることも、とてもじゃないけれど信じられなかった。


 頭でも打ったのかな。何か悪いものでも食べたのかな。

 それとも昨日の件で、怒りすぎておかしくなっちゃった……?


 不測の事態に私は完全にフリーズしてしまって、何にも言葉を発することができなかった。

 そんな私を見て正くんはクスリと微笑んだ。

 え、何それこわい。


「わるい、邪魔しちゃったな」

「そ、そんなことないけど……」


 正くんが『わるい』って言った。謝った。こわい。


 あまりにも不自然すぎて何よりも恐怖心が強かった。

 目の前にいるのはただの同級生なのに、何されるかわからない恐怖に襲われる。

 いくら正くんでも、そんなとんでもないことはしないと思うけれど、それでも。


 こんな時に限って、というかこの人気のない図書室の中では、誰かに助けを求めることすらできない。

 見てみれば当番の図書委員の人の姿もなくて、今この瞬間、おそらくこの空間には私と正くんの二人きり。

 ただただ単純な恐怖心だけが募っていく。


「そう固くなるなよ。俺とお前の仲だろ?」

「う、うん……」


 私たちの仲だからこそ、なんだけれど。

 そんな私の気持ちなんて知らずに、正くんは大層機嫌良さそうに話し続けた。


「いやぁ、俺たちもそこそこ付き合い長いだろ? 中学の頃からじゃん。でもさ、こうやって二人でゆっくり話す機会なかったよな」


 それは正くんが大抵、誰かしら女の子を連れていたから。

 それにそうじゃなくても、極力そうならないように私が努めていたから。

 けれど正くんはそんなことには気づかない。


「考えてみればさ、俺、花園のこと何にも知らないって思ってさ。花園、全然話してくれないし。長い間、ほぼ毎日顔合わせてるはずなのに」


 こっちの調子が狂ってしまう。

 正くんが、こんなに穏やかに話すところを見たことがない。

 正くんといえばいつも自信満々な傲慢な態度で、一方的に言いたいことを言ってくるばかりだったから。


「だからさ、こうして来たわけ。ここなら花園と二人きりになれると思ってさ」


 静かな図書室の中で、正くんの声だけが重く響く。


「花園はいつだって俺のこと見てくれないだろ? いつだってお前は、アイツらのことばっかりだ。俺のことなんか気にもしない。俺がどんなに声をかけても」

「正くん。あの……」


 なんとか声を振り絞っても、正くんはお構いなしに話し続ける。


「そんなの花園だけだ。みんな俺の言うこと聞いてくれるのにさ。みんな俺のこと見てくれるのにさ。お前だけは俺のこと見ないんだよ。いつだって、俺は後回しだ」


 真っ赤な夕日の光が正くんを照らす。それはとても、熱く重たい色。

 その耳につけられたピアスが、ギラリと輝いた。


「俺はいつも一番だったんだ。勉強やってもサッカーやっても、負けたことなんてない。女子だって、みんな俺についてくる。お前だけなんだよ。俺のことを一番にしないのは」


 逃げなきゃ。そう思った。

 最初の穏やかな笑みはいつの間にか消えていた。

 その言葉には、その感情には、とてつもなく暗いものを孕んでいる。


「なんでかなぁ、花園。俺にはお前がわからないよ。なんでお前は俺のことを邪険にするんだ。なんで俺のことをぞんざいに扱うんだ。なんで俺のこと、そんなにコケにするんだ」


 今すぐ立ち上がって逃げようと思っても、足に力が入らなかった。

 脚がすくんで、とてもじゃないけど逃げられない。


「俺には花園がわからない。だから俺にお前のことを教えてくれよ。俺も教えてやるからさぁ」


 逃げ腰になっている私の手首を正くんが掴んだ。

 その握る力が尋常ではなくて、痛みで思わず呻く。


「は、放して!」

「おいおい、言ってるだろう? 俺を邪険にするなよ花園。俺のこと、もっとよく見ろよ」


 ぐっと引き寄せられる。

 男の子の強い力には逆らえなくて、机に乗り上げられる形で私はつんのめった。

 近くに寄せられた正くんの目には、普通の人の光は感じられなかった。

 どんよりと濁った、重い暗黒の瞳。


「俺は誰よりもすごい。俺は誰よりも上だ。俺は特別なんだ。俺がすることがいつだって正しい。みんな、俺の言うこと聞いてればいいんだよ。俺は間違ってない。間違ってるのはお前だ。みんなも、お前も。俺のことだけ見ていればいいんだ」

「痛いよ。正くん……」

「俺には力がある。俺は特別なんだ。俺に敵う奴なんていない。俺のことだけ見ていればいいんだ。俺以外、お前に優先することなんてない。だから、教えてやるよ」


 正くんは笑った。心の底からの愉悦を浮かべて。


「俺に逆らったらどうなるのかをさぁ!!!」


 図書室はいつの間にか、無機質な木偶人形で埋め尽くされていた。

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