8 いつもより不穏なその言葉
状況は完全に凍りついて、私も善子さんも口を開かずにいた。
そんな中でレイくんだけが、普段と変わらない表情で余裕を保っていた。
「そんなところで、僕は行くよ。改めてアリスちゃん、またね。またすぐ会いに来るよ」
「待って!」
何事もなかったかのように立ち去ろうとしたレイくんを、善子さんは辛うじて呼び止めた。
まだ状況を整理できていないといった顔だったけれど、けれどレイくんを見逃すことはできないみたいだった。
「今更何の用? それにアリスちゃんにまで……」
「もう君には関係のないことさ。これは、僕とアリスちゃんの問題だからね」
「そんなこと────」
「あるよ。君とはもう終わったじゃないか。もうこれは、君の与り知らないことだよ」
少し冷たく聞こえる風にレイくんは言い放って、ひとっ跳びでフェンスに乗り上げた。
ポケットに手を突っ込んで朗らかに微笑むレイくんを、善子さんはただ見つめることしかできていない。
「物語は常に先に進んでいるんだ。流れから抜け出たものは、置いていかれるだけさ。僕の物語の中に、もう善子ちゃんはいないよ。今のヒロインはアリスちゃんだからね」
最後に私に向かってニッコリと微笑むと、善子ちゃんの返事も聞かずにフェンスから飛び降りた。
私は慌てて下を覗き込んだけれど、案の定もうそこには何もなかった。
朝と同じように、忽然と消えてしまっている。
そよ風が頬を撫でる微かな音以外、何もない静寂の時間が流れた。
渦中のレイくんが居なくなったことで、一気に気まずくなる。
お互いに聞きたいことだらけだった。
「……みっともないとこ、見せちゃったなぁ」
先に口を開いたのは善子さんだった。
さっきまでのピリついた空気はなくなっていて、いつも通りの優しい口調だった。
えへへと頭を掻いて、苦い笑みを浮かべる。
「善子さん……魔女、だったんですね」
「まぁ、ね。ちなみに私は、今朝の時点でアリスちゃんが魔女になったことに気づいてたけどねー」
努めていつも通りにしようとしている善子さんは、ニッコリと笑いながら朗らかに言った。
どこか無理がありそうな感じだったけれど、そのいつも通りな温かさに少しホッとした。
「そうだなぁ。放課後、空いてる? 詳しい話は後でしようよ。もう少しで昼休み終わっちゃうしさ」
時計を見てみれば、確かにお昼休みは残すところあと少しだった。
おちおちしてたらお昼を食べ損ねちゃう。
「わかりました。じゃあ、放課後に……」
「うん! 昇降口にて待つ!」
そう言うと、善子さんは足早に立ち去ってしまった。
何が何やら。唐突に起きたことに理解が追いつかないけれど、でも善子さんが魔女だったなんて……。
それから私も屋上を後にした。鍵は仕方ないから開けたまま。
後で氷室さんに頼んで閉めてもらった方がいいのかもしれない。
普段は閉め切りなんだから。
レイくんのことや善子さんのことで、この短い間に色々あって混乱中だけれど、それでも時間は待ってくれない。
早く戻ってお弁当を掻き込まないと、午後の授業が始まっちゃう。
そう思って、私が急いで教室に向かって小走りになっている時だった。
「お、花園じゃん。珍しいなぁ一人なんて」
「げ……」
思わず思った通りの声が口からこぼれてしまった。
私を呼び止めたのは、他ならぬ正くんだったからだ。
正直、面倒事はもうお腹いっぱいなんだけど……。
「あの二人とは一緒じゃないの?」
「えっと、ちょっと用があってね。今から戻るところ。早くお弁当食べなきゃ」
「ふーん」
聞いておいて、あまり興味なさそうに正くんは私の返答を流した。
なんだか、私を品定めでもするようにまじまじと見つめてくる。
「……どうしたの?」
「いいや、別に。そういえばお前のクラス、今朝騒がしかったみたいだけど何かあったの?」
「うーん。大した事じゃないよ」
正くんに詳しく話す気にはならないし、そもそも人に話したい事じゃない。
ただただ説明が面倒になるだけだし。
「あっそ。まぁなんていうかさ、お前は普通で良いよな」
「えーと、どういうことかな?」
「そのままの意味だよ。平凡っていうかさ、これといって特別なとこないだろ? そういうのってさ、なんかいいと思ってさ」
それは一体どんな嫌味なのか。
自分がサッカー部のエースでイケメンモテモテ男子だということを、一体どんな風に鼻にかければそこまでの嫌味が言えるのだろう。
「いいと思うよ。花園はそのままが一番いいさ」
「あ、ありがとう……」
どうやらとても機嫌が良いみたいだった。
いつものキザったらしい驕った笑みじゃなくて、どこか嬉しさを堪え切れない笑みだった。
「だけど俺みたいのだと、そうもいかないみたいでね。まったく困ったもんだよ。これ以上俺にどうしろっていうんだろうね」
「話が、見えてこないんだけど……」
私のことなんてお構いなしに、心地好さそうに一人で喋る正くん。
何でそんなことをわざわざ私に言ってくるのか、さっぱり理解できなかった。
「もう俺の思う通りにならないことなんてないってことさ」
それは全てを手にしたような、余裕な笑みだった。
何もかも自分のものだと、そう言わんばかりの、支配者になったような顔。
その耳につけられたピアスに光が反射して、ギラリと嫌な光り方をしていた。
その目がなんだかとても気持ち悪くて、私は一歩引いてしまった。
「私、そろそろ戻らないと……」
「そうだ。今日部活で練習試合があるんだ。俺も出るからさ、見に来るだろ?」
とても当たり前のように誘われた。
それは断られるなんて微塵も思っていない口振りで、来ることが当たり前のような言い方だった。
まるで、お前はもう俺のものだと言わんばかりのその態度に、寒気すらした。
「か、考えておくよ……」
私の煮え切らない態度に若干気を悪くしたのか、目つきが少しだけ悪くなったけど。
でもすぐに余裕のある表情に戻った。
「待ってるよ。じゃあ、放課後に」
もうそれは彼にとって決定事項なのか、勝手にそう言い放って正くんは行ってしまった。
いつにない押しの強さだった。今までも、自分がモテるのは当たり前で、女の子がいうこと聞くのも当たり前、みたいな横柄さはあったけど。
今のは少し違った。
今の正くんは、もう全てが決まりきったことのように断じていた。
何があっても私にいうこと聞かせることができる。
そう確信しているかのようだった。
私は寒気を感じながら、重く鳴り響くチャイムの音を聞いていた。
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