檸檬


 車内でうなだれている私に、運転手はなんの話も振ってこなかった。きっと私が年頃の女学生とみるや、話題を選んでもしかたがないと放棄したのであろう。それは結果としてありがたい選択だった。今は雑談なんてできる気分じゃない。ただ私に現実として襲ってきているのは、痛いぐらいの空腹と、弾けだすような焦燥感だけなのだから。昔読んだ本で、汽車の中ですら走りだしたいという表現があったけれど、きっとこんな気持ちのことをいうのだろう。

 私は本を読むことが好きだ。私が読みたいと思う本は二種類ある。一つは私に関係のない、途方もなく遠い幻想的な世界の話。そしてもう一つ、私にしか理解ができないほど内側に閉じた生々しさのある世界の話。そしてこの両種は限りなく透明に近いほど薄い色でできた壁で隔てられている。星野道夫はおそらく前者で、村上龍はきっと後者にいる。もちろんその隔たりは見えないのだけれど。

 私に読書の面白さを教えてくれたのは母だった。絵本を読み聞かせてくれていたころから、私は物語やそれにまつわる世界観が好きだったらしい。それを見て、彼女は小学生の私を毎週のように図書館に連れていってくれたのだ。私は立ちはだかった無数の綴じられた世界たちに気圧されながら、覚えたての犬かきで泳ぎだした。私になにか大切なことを教えてくれる、大切な物語の海へと。

 被爆する前、そんな幼い頃でも私は決して友達が多い子供ではなかった。形式的に話す関係の人間はいたけれど、それも今や連絡先すら知らないのだから、つまりはどうでもいい関係だったのだ。私にとっての社会は小学校なんかではなかった。ただ暖かな家庭がそこにあって、学校は何人かの人間と友好的に話しているだけの生活。

 母は私に想像の世界という面白さを教えてくれた。そして父は、そんな私をたまに外に連れだして、本であったような世界に似たなにかを見せてくれる水先案内人だった。

 海が見たいといえば幕張海浜公園や江ノ島へ、山が見たいといえば高尾山や北関東へドライブに連れていってくれた。私が本を車で眺め酔ってしまえば、手を尽くして介抱してくれた。

 私は恵まれていた。家族に、家庭に。

 私は愛されていた。間違いなく両親に。


「……もう終わりなのかな……」

 タクシーの窓辺に頬をつけて、夜のとばりにガラス一枚まで近づいた。常磐道は渋滞もなく軽やかに車をいざなった。

 今母親が死んだとして、果たしてそれにどんな意味があるのだろう。私の生活のなかで、お見舞いに使っていた時間が墓参りへとシフトするだけだ。さして問題はないように思える。私にとってこのことは大したことのない話。

 そう思えたらどれだけよかっただろう。こんなに心細いのは、私のもともとあった家族というものが、この世界から誰一人いなくなってしまうという事実が目の前に迫っているからなのだ。いつかはこうなると思っていた。一生母親が生き続けているなんてありえない。覚悟はとうの昔に終えて、まるで死人に会いにいくように、私はあの病室へ巡礼を繰り返していたのではなかったのか?

 母が死ぬ。


 そう言葉が浮かび上がってくると、恐怖に似た悲しみが手先を痺れさせた。私は俯いて、ただこの時間に耐えていた。早く終わって欲しかった。いっそのこと、今すぐに義父から連絡がきて、母の訃報を知らせてくれたほうがマシだった。それでもこっちから連絡するような勇気も出せず、私はただ胸元に当てた手が落ち着いてくれるよう、高鳴る鼓動を聞かせていた。

「……こちら、どうですか?」

「……はい?」

 料金所でいったんスピードが緩くなったタイミングで、運転手さんは私に飴玉の袋をさしだしてくれた。果物の味がプリントされたビニールの個包装、私は手を伸ばしてそこからレモン味の飴をとった。

「……ご気分が悪いようでしたので。気休めていどですが……」

「いえ、ありがとうございます……」

 考えてみれば、朝からまともなものを食べていない。口の中に飴をノロノロと受けいれて、柑橘系の加味料が私の口内を犯していく。

「……お父さん……」

 小さいころ、父がくれた飴にそっくりの味だった。私が好きな味ばかり集めてくれたあの袋、変わる景色と同じくらい、楽しみでしかたがなかった。

 まだお母さんを連れていかないでください、お父さん。


 懇願は時速一〇〇キロ近い車内で、声もなく行われた。私は不安で滅茶苦茶になりそうな頭を抱えたまま懺悔した。今までにした悪行を。そして取り返しがつくのならば、善行を命じてくれて構わなかった。

 義父からはなんの連絡もなかった。それがなにかを物語っていた。目を逸らした。私はまだ、お母さんが読んだおとぎ話の世界にしがみついていたかった。


 涙ぐむ私にそれ以上なにも言わず、運転手さんは急ぎ東京へ私を送り届けてくれた。

 遠い距離、ありがとうございました。という私の気持ちがこもっていないお礼に、彼は会釈一つで走り去っていった。振り返るとそこには、今までいくらでも訪れてきた新宿区の病院がそびえていた。

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