10.記憶

その1

 この話は異世界に来て5日目の話である。


 私は個室に入りながら何か引っ掛かるような感覚を覚えた。


 何か忘れている気がするんだけど……。


 私はドアを閉めると、便器の蓋を開け、パンツを下ろすと、便器に座った。


 何だろうか?大事な事のような気がするのだけど。


 私はそう思いながら用を足し始めた。


 女の子のでするのも流石に慣れてきたかもね。

 ただ男の子でしている記憶も朧気だけどあるんだけど……。

 なんだか今はこっちの方が自然になりつつありかも……。


 用を足し終わると、洗浄ボタンを押して洗うと、乾燥ボタンを押した。


「あ!!」

 私は突然思い出して大声を上げた。人間は不思議なもので何の関係もない行為で全く違う事を思い出したり、とんでもない思い付きをしたりするものである。


「ルコ様、きちんと用を足せているのにいかがなさいましたか?」

 マリー・ベルはいつもの無機質な口調で冷静にとんでもない事を言った。


「ちっがうわよ!」

 私はAIの癖にとんでもない事を言ったマリー・ベルに怒鳴った。


 本当にマリー・ベルには感情がないの?

 もう、初めてした時の事を思い出しちゃったじゃない!


 それはこの世界に来た初日の事だった。

 尿意を覚えたルコはトイレに慌てて駆け込むと、すぐに固まった。


 どうすればいいの?

 スカートをまず脱げばいいの?


 私はトイレで初めて用を足そうとした時、スカートを下ろそうとしたところでマリー・ベルに言われた。


「スカートをお脱ぎになる必要はありません」

 マリー・ベルは無機質な声でルコに親切に教えたつもりだろうが、その声を聞いた私は呆気にとられて固まった。


「ルコ様、スカートを捲り、そのままパンツを……」

 マリー・ベルは固まっている私に尚も説明を続けようとした。


「ちょっと、待って!」

 私はスカートから手を離してわなわなと震え始めた。そして、

「何で覗いているの!」

と顔が真赤になるのを感じながら叫んだ。


「ルコ様は初めてのトイレですので、お手伝いが必要かと思いました」

 マリー・ベルは相変わらず無機質な口調でそう言った。


 ただAIなので、お節介と親切の区別はつかない事はこれでよく分かった。


「だからって、覗かないでよ!」


「覗き行為とは違います。わたくしのセンサーはこの車内のあらゆる場所を感知できる能力を有しています。また、車内のデータを監視する義務があります」

 マリー・ベルは自分の正当性を主張した。もちろん、抑揚のない無機質な口調で言っていた。


 それ故に始末が悪いと感じられた。


「分かったから、ちょっと黙ってて!落ち着いてできないじゃない!」

 私はこれ以上マリー・ベルに抗議する事を諦めた。抗議が通じる相手ではないからだ。


 以上のやり取りを私は今思い出していて、それで体温が急上昇する感覚を覚えていた。


 いや、今はそんな事を思い出している場合ではないのよ!


 話が大きく脱線したので私は憤慨していた。


「では、いかがなさったのですか?ルコ様」

 マリー・ベルは再び聞いてきた。


 話を脱線させた本人が言うのか!


 私は更に憤慨したが、マリー・ベルにこういった怒りをぶつけても徒労に終わる事はこの5日間でよく分かっていた。


 そして、気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をした。


「ネットの事、インターネットの事を昨夜聞こうとしたのに忘れてたの。それを今突然思い出したのよ」

 私はむくれてそう言った。


 私が忘れていたのは記憶が曖昧になっているせいでもあった。目の前で情報が入ってくるのを全く不思議とは思わなかったのもある意味記憶に定着していたもののお陰であり、その仕組を言い当てられなかったのは記憶の曖昧さからくるものだったのだろう。


 まあ、この際自己分析はどうでもいいのよ。


「はい、承りました。インターネットの何をお知りになりたいのですか?」

 マリー・ベルは事務的に事を進めようとした。そんな感じで何を言っても仕方がないと、ルコは溜息を付いて諦めると、

「この世界にもインターネットはあるのよね。映像とか入ってくる情報は全てネットを介して入ってくるのよね?」

と質問した。


「はい、仰る通りです」

「という事は、ネットの掲示板とか、HPやSNSとかも存在するわよね?」

「はい、仰る通りです」

「という事は、それに現在のこの世界の事がたくさん情報としてそれらに上がっているのじゃない?」

「『はい、仰る通りです』と言いたいのですが、たくさんというほどではありません。また、有用な情報は皆無と言って差し支えがないと推察されます」

「どういう事?」

「異世界からこの世界にやってきた人の殆どはインターネットの存在自体を御存知ないですし、理解が出来ない人達です。ルコ様のようにこの世界に近い世界からやってきた人たちの方が圧倒的に少数です」

「でも、ゼロではないんでしょ?」

「はい、仰る通りです。ただ、掲示板にしろ、HPにしろ、SNSにしろ、その中で最も新しい更新日が約2ヶ月前になっております」

「その人達はどうなったの?」

 私は嫌な予感を感じていたが聞かずにはいられなかった。


「おそらくは亡くなったものと推定されます。それまではほぼ毎日のように更新されている事からそう推定いたしました」

 マリー・ベルのこの言葉を聞いてこの世界がいかに厳しいかを改めて思い知らされた。正直私は絶望に打ちひしがれるような感覚を覚えた。


「今生存している私達みたいな異世界から来たグループとはこちらから連絡が付かないの?」

 私は違う観点からの質問をしてみた。何とか状況を打開したいという気持ちからだった。


「それは出来ない仕様になっています。実は過去にグループ同士の陰惨な同士討ちが発生しまして、各AIが自分のグループを守るために許可を与えたグループ以外に情報交換できないようにプロテクトするようになりました」


 うわぁー、そんな事をしている場合じゃないだろうに!

 私は頭を抱えた。


「プロテクトを解除する方法は?」

「お互いのグループが連絡を取り合う事を許可する必要があります」

「それって、直接会うかネットを介してって事?」

「はい、仰る通りです」


 協力は絶望的って事かな?ネットの存在すら知らないのが大半なら、偶然出会うしかないという事か……。それって、どのくらいの確率なの……?


 私は絶望で髪を掻きむしるように頭を抱えた。

 だが、髪を掻きむしったお陰で、少しは冷静になった。


「この世界にやってきた異世界から来たグループってどのくらいいるの?」

「通算で10万は遥かに超えるかと推定されます」

「それって、凄い数では?」

 私は顔を上げて希望を持ち始めた。


「ただし、それは転移現象が観測し始めてからの累計です」

「観測し始めたのはいつから?」

「約400年前です」

 マリー・ベルのこの言葉に私の希望は一瞬で打ち砕かれた。


「何だか打つ手なしって感じね。生き残っているグループの数とかは分かるの?」

 私は希望を見つけようとめげずに聞いた。段々慣れてきたのか?そういう体質なのかは分からないけど。


「推定できかねます。ただし、この1年で転移してきたグループは約3000という事はお伝えできます」

「3000?ずいぶんと多いわね。平均すると250ぐらいになると思うんだけど」

「はい、仰る通りです。ただし、転移現象は平均的に起きる訳ではないようで、その周期性もないとこれまで推察されています。ここ数年は特に活発になっております」

「という事は偶然に会える確率も上がっているというわけね」

 私はそう言うと、腕組みをして黙った。いかにして他のグループに合うかを模索し始めていた。


「これらの情報は、他の御三方にお知らせしましょうか?」

 何も答えない私にマリー・ベルの方から質問してきた。


「それはいいわ。有益な情報が得られない以上説明しても仕方がないわ」

 私は今度は諦めた事に対して溜息を付いた。そして、

「ただSNSには登録をお願いね。それと連絡を待っている事を書き込んでおいて」

と意を決したようにすうっと立ち上がり、仁王立ちになった。


「はい、承りました」

 マリー・ベルはそう答えたが、しばらく動かない私に対して、

「ルコ様、大変失礼ですが、パンツは上げておいた方がいいと提案いたします」

と無機質な口調で言った。


 私はトイレで用を足していた事を忘れていたので、パンツを慌てて引き上げた。


 私は顔を真赤にしながら締まらない気分でトイレから出た。


「ルコ、主、腹でも壊したのじゃろうか?」

 遙華はトイレから出てきたルコに声を掛けた。トイレに居る時間が長かったので心配して声を掛けていた。

 遙華をはじめ、恵那と瑠璃も訓練から作業区画に引き上げていて休憩を取っていた。


「ええ、大丈夫よ。もう治ったから」

 私はそう言って誤魔化した。


「それなら良いのじゃが、無理は良くないのじゃ」

 遙華の心配そうな顔を見て私はちょっと心が傷んだ。遙華だけではなく、恵那と瑠璃も心配そうに私を見ていた。


「うん、分かったわ」

 私は精一杯の笑顔でそう答えた。


 他のグループと何とか連絡がつけばいいのだけど……。


 私は三人を見て切にそう思った。


 しかし、1ヶ月を過ぎても何の連絡もなく、今では私はほぼ諦める他ないと考えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る