希望
本当に突然だが、小学生の頃の記憶がない。
限りなく無い。
どこまでも無い。
中学や高校に比べて、比較的ハードルの低い、小学生時代の『告白』の記憶も無い。
つまり、これは告白された経験が無いということになる。告白はされていても、告白をされた記憶も経験も無い。
だけど、これだけはハッキリと言える。
「え? い、嫌だよ……恥ずかしいし」
後頭部で手を組んで目線を斜め上に逸らしながら思ってもいないことを口にする、この返事の仕方は間違いなく間違っている。
小学生以降に、この行為は許されない。
「は、ハァァッ⁉︎ 何断ってるんですか何断っちゃってるんですか⁉︎ 先輩がヨダレ垂らしながら求めてた女の子からの告白じゃないですかっ! 潔く、自分も中学の頃から私のことが好きだったって認めればいいじゃないですか! それでみんな幸せになるのに! そうやって意味の分からないところで意地っ張りだから男の子からばっかりモテるんですよ⁉︎」
見たことがないくらい必死な形相で責め立てる小町に面食らったが、それでも責め立てられる謂れなどない俺は、毅然とした態度で小町に言い返した。
「ヨダレなんか垂らしてねーし! マジでヨダレなんか垂らしてねーから! お前、本当にヨダレ垂らしてたって思ってる? 残念! ヨダレなんか垂らしてません! いや本当に垂らしてないから! 絶対に垂らしてません!」
「ヨダレばっかりに反論しないでくださいよ! 他にももっと気になるところあったでしょ!」
「……ああ、そうだな。その“男の子”について詳しく教えて欲しいんだが」
そこで俺は驚いて言葉を詰まらせた。
小町の目が涙で輝いていたから。
「先輩のドアホ! もう知りません! 二度とドキドキさせてあげませんから!」
そう言って、小町はプンスカと教室から出ていった。
「ドアホだと⁉︎」
驚いていると、昼休みの終わりを告げるチャイムとともにクラスのみんながぞろぞろと教室に戻ってきた。
「終わった?」
大量の男を担いで戻ってきた由乃の顔を見て、俺は大きめのため息を吐いた。
◯
告白を断って以来、小町が教室に来ることはなかった。
絶対団の連中に狙われないのはいいが、中学時代、毎日のようにからかわれていた俺は、小町がこの程度で“からかい”を
「なんで同じ高校を受験するかね……」
もちろん、志望校が俺と同じだなんて知らなかったのだろうが、数ある学校の中からまさか同じところを選ぶなんて……。
「はぁ……絶対団に仲間入りするか、小町を再起不能にするか……どっちがいいんだろうな」
しかし、現在、小町は別に何もしていないわけで、やっぱり絶対団への仲間入りが妥当か。
「できれば、その二択が間違っていることに気づいて欲しいけど」
俺の前方、向かい合わせの机に座る乙宮は、机の上に積まれた紙を見た。
「しかし……学校の改善点を学級委員にだけ書かせるか?」
ごっつぁんから渡された紙には、普段生活していて感じる学校の改善してほしい点を書いてほしいとあった。
どうしてそれを、俺と乙宮の学級委員コンビが書くことになったのかと言えば、それは本当に何の面白みもない理由で、この紙の提出期限が今日、
「それにしてもよく書くなぁ」
そうして乙宮は全員分の改善点を書こうとしている。別に改善点が無いなら無いでいいのだが、どうやら乙宮にはこの学校に改善してほしいところがたくさんあるらしい。
俺も一応書いてはいるのだが、一枚一枚スペースいっぱいに書き込む乙宮を見ていると、きちんとした改善点を書かなければならないという強迫観念に襲われてなかなかペンが進まなかった。
……というのは言い訳だ。
「どれどれ……授業中の食事を許してほしい」
紙の束の一番上を手に取るが、その内容は子供が考えるようなものだった。
「食堂がもう一つほしい……食べ過ぎても太らないステーキを作ってほしい……って食べ物の事ばっかりじゃないか」
ここ、私立光彩学園は生徒からの要望が通りやすいことで有名(要は自由な校風が売り)だが、それでもこれは通らないだろう。というか、もしかして乙宮、結構遊んでる?
「悪い案ではないと思うの。私たちがこうやって学校への要求を考えている間にもお腹を空かせている生徒はいると思うし。何より私がお腹を空かせてるし」
まさかと思い、他の紙も確認したがやはりどれもこれも食べ物関連のものばかりだった。
「いや、そりゃ悪い案ではないと思うけど……そんな世界規模のような感じで話されても……」
最初に比べて、乙宮と喋るのに緊張しなくなった。
さらに、今は改善点を書くので一時間近く教室に残っているから、疲れで力が抜けて大分楽に話せている。
「そういえば……」
改善点という名の空腹点を書く手を止めずに、乙宮は俺に聞いてきた。
「どうして断ったの。あの子に……相星さんに告白されたんでしょう」
あの子というのは、おそらく小町のことだろう。
「ああ……あいつはああやって俺のことをからかってるだけだから。本当は断るも断らないもないんだよ」
きっと俺が照れながら小町と付き合うなんて言っていたら、あいつは大声でゲラゲラと俺を嘲笑ったに違いない。
「そう……? 私には本気に見えたけど」
「ないない。中学の頃からどれだけあいつから好きだと言われてきたか……。そういえば、小町となんか揉めてたけどなんだったんだ?」
「別に……ただの僻み」
「僻み……?」
乙宮はコクリと頷いた。
「私、あの子みたいに告白する勇気がないから……」
「え……お、乙宮って好きな人いるの⁉︎」
つい声を上げてしまう。
ま、まぁ考えれてみれば、思春期真っ只中の女子高生に好きな人の一人や二人いても不思議じゃないけど……でも、乙宮が告白すればみんなOKするだろうに……。
「好きな人…………分からないけど、私の人生はずっとその人を希望にして生きてきたから……好き、なのかも」
いつもの無表情ながら心ここに在らずなのが分かる。
なぜって、改善点を書いていたはずのペンが、全く意味を成さない生後十数か月の子供の絵のようなものを描いていたからだ。
希望にして生きてきた……か。
「いつか気持ちが届くといいな」
それは無責任な言葉だったかもしれない。
だけど、心からの言葉だと胸を張って言えるものだった。
「――――うん」
まったく。目の前にあるこの笑顔を独り占めできる人間というのは殺したいほど羨ましいが、そもそも、その希望を生み出すどころか希望そのものになっている人間というのが笑顔の理由だとするのなら、俺はむしろそいつに感謝しなければならない。
そして、感謝と同時に、由乃との約束を守るのが絶望的なのことが分かった。
友達になったばかりの俺にさえ教えてくれたのだ。きっと由乃はこの話を知っていたはずだ。なのに、どうして年内に告白しろなんて無茶を言ってきたのだろうか。
「あ、そうそう。乙宮って由乃といつ知り合ったんだ?」
俺は前々から疑問に思っていたことを口にした。
普通ではない二人、間違いなく並外れた二人の出会いが気になっていた。
もしかしたら二人の出会いのエピソードだけで、独立した物語、もしくはスピンオフとして成立するかもしれない。それほどの期待とワクワクを感じさせる可能性が二人にはあった。
「分からないわ。気づいたらシノは私の側にいてくれた」
「気づいたら?」
紙の上にテキトーな改善点を書きつつ、俺は乙宮の言葉を繰り返した。
「うん……って言っても、私は小学生の頃のことをあまり覚えていないから、その時に出会ったのだとは思うけど……」
なるほど、スピンオフはまた別の機会に、というわけか。
案外、小学生の頃の記憶なんて、みんな覚えていないのかもしれない。
「じゃあ、私はこれを先生のところに持っていくから」
そう言って立ち上がった乙宮の手元には『改善点なし』と書かれた紙がオレンジに照らされていた。
先に帰ってていいと乙宮に言われて、素直に教室を出たが、よく考えれば、これは一緒に帰るチャンスじゃないか。
乙宮の気持ちは多分、変わらないだろうけど、一緒に帰るくらいはいいじゃないか。
そう思った俺は靴箱近くでこうやって乙宮を待っているわけだが……。
「だーかーら! 今、傘忘れちゃった作戦考えてるって言ったでしょっ!」
「お前はそうやって中学の時だって、本当の気持ち伝えられずにいたじゃねぇか!」
何やら聞いたことのあるやかましい声が、こちらへ近づいてくる。
俺は咄嗟に靴箱の陰に隠れて様子を伺った。
「だって断られちゃいましたもん! 少しは心を癒す時間をくださいよ!」
「癒してる暇があるなら押せ! あいつは押せば絶対にいける!」
大声で話しているのはつかちゃんと小町だった。
「はぁ……」
俺が小町の告白を断ったもう一つの理由がこれだ。
中学の頃からこの二人はおれの陰でこそこそといつも何かを話している。
見て分かる通り、めっちゃ仲良さそうだ。初めて見たときはもう付き合ってるだろ、と思わずツッコミそうになったが、多分まだ付き合ってはいない。
これは付き合う前の甘酸っぱい状態だ。根拠はないがそんな感じがする。多分。おそらく。
「もういっそ押し倒せよ……あいつチョロいからそれでいけるぞ」
「それができたら、私は今悩んでいないんですけどね……」
それにしても、さっきからなんの話をしているんだ? 話が全く見えてこない。
「お。乙宮。どうしたんだ? こんな時間に」
俺は乙宮という単語にビクついた。
靴箱の陰から覗くと、つかちゃんと小町の前に、プリントを提出し終えたであろう乙宮が立っていた。
「むむ……」
「どうしたんだよ、そんなに乙宮を睨んで」
「別に睨んでません……。ただ、この人はライバルになりそうな気がして……」
どうしてか乙宮と小町の間に火花が散ったところで、乙宮がつかちゃんの質問に答えた。
「学級委員の仕事で残ってた」
「それはお疲れさん。学級委員も大変だな。……学級委員ってことは旭もか?」
「うん。さっきまでいたけど、先に帰ったと思う」
「えええ! さっきまでいたんですか⁉︎ くっ、放課後の学校なんてドキドキイベントを逃す手はないですっ!」
小町は急いで外履きに履き替えると、走って玄関を飛び出していこうとした。
しかし、玄関へ向かうという事は、俺の隠れている方へ向かってくるという事でもあり。
「おおおおお! …………え?」
学校から走り去ろうとした小町とガッツリ目が合う。
「……はは、どうも」
うやうやしくお辞儀をした俺に、小町はまるで幽霊を見たみたいに何度も瞬きをして目を擦った。
「ええっ⁉︎ センパイ何してるんですかもしかして盗み聞きですか! そんなだからモテないんですよ!」
俺を指差す小町に、俺は冷静な態度で言った。
「あ、安心してくれ……俺は傘が見当たらないから、ここで立っていただけで、耳とかマジ機能してなかったから。押し倒すとかマジ聞こえなかったから」
「きっちり聞いてるじゃないですかっ! それに雨どころか雲一つ見当たらないんですが! 快晴なんですが!」
やけにハイになっている小町に背を向けて、俺は外を顎で指した。
「それより早く行けよ……放課後の学校なんてドキドキイベント、逃す手はないんだろ?」
俺は今まで、小町の“本命”はつかちゃんだと思っていた。だから、つかちゃんに近づく理由として俺をからかっているんだろうと、そう思い込んでいた。けど、どうやら本命は他にいたらしい。
俺にしてはかなり格好つけたつもりだったのだが、小町が一向に動き出す気配がないので振り返ると、小町の足元が、それこそ雨の日のように濡れていた。
「……?」
視線をゆっくり上げると、それが小町の涙であることが分かった。
「え⁉︎ ど、どうした! 俺に足止めされて追いつけなくなったか⁉︎」
俺がオロオロしていると、小町は笑顔を見せて言った。
「いえ。まだ……まだ追いつけます!」
そう言うと、小町は涙を拭くこともせずに走っていった。
俺は小町の背中を眺めながら、ひどい後悔に苛まれた。
「あれは追いつけないな……くそやっちまった」
俺とのくだらない会話のせいで可愛い後輩女子の恋路を邪魔して泣かせてしまうとは、男として、先輩としてこれほど情けないことはない。
「すまん……つかちゃん。俺、今まで小町がつかちゃんのこと好きなんだと思ってて……」
そこで、つかちゃんが俺の肩にそっと手を置いた。
優しい笑みだった。
「旭のバカやろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
そして、俺の顔面を優しくない殴打が襲った。
「ドブヘェヘォガァオ⁉︎」
「早く追いかけい! 今ならまだ間に合う!」
俺は意味が分からなかったので、なぜか怒っているつかちゃんの、奥にいる乙宮をたまらずに見た。
「…………早く行った方がいい」
「ああくそ! 行きますよ!」
俺は小町を追いかけて、学校を飛び出した。
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