別れた方がいい



 必死で伸ばしたグローブの先をかすめて、ボールが翔馬の股の下を潜り抜けていく。慌てた拍子に足がもつれ、バランスを崩してこけてしまう。地面に軽く顎を打ち、一瞬視界に火花が散る。


「おい、上野、しっかりしろよ!」


 ホームベースの前から、バットを持った羽田さんが叫ぶ。すいません、と声を張り上げ、翔馬は慌ててボールを拾いに行く。ボールは外野の一番奥にあるフェンスの前まで転がっていた。羽田さんの打球はやっぱり凄いな、と舌を巻く。


「外野手って、意外と難しいな」


 練習後、着替え待ちの間に、翔馬は誠に話しかけてみた。今日の市民グラウンドにはロッカー室がないので、トイレの個室で順番に着替えている。


すでに着替え終わった誠はベンチでグローブの手入れをしていて、顔を上げない。


「おい、聞いてるか?」


「え? あ、ごめん。何?」


「まあ、グローブが大事なのはわかるけどさ」


 六月末から、他大学のサークルも交えて野球大会が始まる。そこで誠はピッチャーをする予定で、先日の練習から本格的に投球練習を始めている。久し振りのピッチャーで、気合も入っているんだろうな、と翔馬は思った。


「外野手。意外と難しいなって」


「そうだね。打球判断とか動き出しとかは慣れが必要だし。上野君、ほぼずっとキャッチャーだったんだよね」


「そうなんだよ。後は精々ファーストくらいしかまともに経験ないから、ピンとこない」


 キャッチャーは野手に指示を出したりするくらいだから、その経験はきっと生きるはずだが、実際に動くとなるとそうは上手くいかない。


「なあ、今日は用事ないんだっけ。一緒に帰らない?」


 誠がそんなことを聞くのは珍しい。不思議に思いながら翔馬は頷く。


「ああ、いいけど」


「うん。着替え、待っておく」


 翔馬は自分のユニフォームに目を落とす。ドロドロ具合を改めて確かめながら、洗濯、面倒だな、と少し憂鬱な気分になった。


 今日のグラウンドは井原市の隣町の小高い場所にあった。帰りも途中までは二人とも同じ方向だ。なだらかな坂を、翔馬と誠は自転車を並べながら下る。汗をかいた体には、夕方の風が心地良い。翔馬の首元から入った風が、ふわっとシャツを膨らませて、裾を通って抜けていく。


誠は、ずっと、どこか浮かない顔をしている。


「どうした。投げるの緊張してんのか」


「まさか。草野球のピッチャーくらい普通にこなすよ」


「それならいいけどさ。あ、お前、ランナー出したときの練習した方がいいぞ。クイックモーションになったら体の開きが早くなってる」


「ホント? 前はそんな癖なかったのに。よく外野の位置からわかるね」


「何年ピッチャーと向き合ってきたと思ってるんだよ」


 翔馬はニヤリと笑う。小学生の頃から、色んなピッチャーの球を受けてきた。平然としてるけど実はもう疲れているな。力んでるからリラックスさせないと。一つ一つ、実地で、ピッチャーのパフォーマンスを最大限引き出すための感覚を磨いてきた。


 坂の下にある信号で止まる。もう一度坂を上って下れば、井原市に入る。


「なあ、藤崎とは順調なんだよね」


 誠の口調は、どこか探るような様子だ。そう言えば、誠とその話をするのは初めてだな、と翔馬は気付いた。絵美のことだから、付き合ったことはもちろん、それからのデートのことなんかも勝手に伝えていたのかもしれない。


「ああ、おかげさまで」


「そっか」


 その顔は、ホッとしたようにも、切なそうにも見えた。


信号が変わって、きつい上り坂に差しかかる。ここで信号に引っかかった場合は、観念して自転車を押して歩いていくしかない。足の負荷を感じながら上る間も、誠は黙って何やら考え続けている。道の横に続く林からカラスの声がして、ばさばさ、と羽ばたく音と共に、前方の木の葉が揺れて黒い影が飛び出した。


坂の中ほどまで差しかかったところで、翔馬はついに痺れを切らした。


「どうした、なんか言いたいなら言えよ」


「ああ」


 そう言って誠は目をそらす。その目には、何か迷いの色が浮かんでいるように見えた。


 再び、カラスの声が聞こえる。今度は頭上高くから降ってきた。二、三羽くらいの声に呼応するように次々と別の声が重なり、オレンジ色に染まる空の下を、黒いシルエットがいくつも横切っていく。


その声が遠ざかっていった頃、誠は口を開いた。


「別れた方がいいと思う」


 思わず、翔馬は歩みを止めた。


「何言ってんの、お前」


 誠は俯いて何も答えない。その髪の毛を、服の裾を、風が小さく揺らす。


「なあ、答えろよ」


「いや、やっぱりいい。なんでもない。もう少し考えるから、忘れて」


 それ以上の追究は許そうともしなかった。気まずい雰囲気のまま坂の上まで来ると、夕日に照らされた井原市が姿を見せる。変わったようで、変わっていない町。


「良い町だよね」


 誠が、おもむろに呟いた。どこか遠く、時間軸の方向での、遠くを見るような目で。


 真意を測りかねる。色んな可能性が頭に浮かんでは、上手く説明がいかなくて自然と消えていく。澄香に関することだろうか、と彼女の顔が頭に浮かび、消そうとする。また、頭の中から澄香を追い出そうとする。


 俺、何回これを繰り返してるんだろう。


「早く帰るぞ。暗くなる」


 雑念を振り払うように、翔馬は先に目の前の坂を勢いよく下り始める。眼下に広がる町に向かって。



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