雨の日の書店
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朝からしとしとと雨が降り続いていた。都会の道には色とりどりの傘の花が咲く。その中で並ぶ水玉模様と黒色が、時々ぶつかって、その度に滴を散らしている。
「雨、やまないね」
水玉の花の持ち主が、空を見上げながら言った。その柔らかい右手は、自分の左手と共に時々滴の冷たさを受けながら熱を保ちあう。
「いっそ相合傘でもするか?」
「どっちも傘持ってるのにそれって、バカップルみたいじゃん、周りの目が痛いよ」
絵美は恥ずかしそうに笑った。
土曜日、翔馬は絵美と二人で街に繰り出していた。あいにくの雨だったが、絵美は、この前買ったというレインブーツをお披露目できる、とそれはそれで嬉しそうだったので良かった。無邪気に笑う彼女を見ているだけで、心は満たされるから。
一度アーケードに入り、抜ければまた傘を差し、目的の大型書店が見えても、その間ずっと二人の手は離れなかった。N極、と絵美がぎゅっと握ったので、S極、と翔馬は少し距離を縮める。
書店に入り、三階に上って、真っ直ぐ学術書のコーナーに行く。
「すまんな、デートなのに俺の私用に付き合わせて」
四月から買うか迷っていた線形代数学という授業の参考書があって、授業が進むにつれこれは必要だと感じるようになったが、思ったときには、すでに生協の本屋では売り切れてしまっていた。今日街に出るついでに探せれば、と思っていた。
「私はいいよ。どこに行っても、デートはデートだもん」
「サンキュ」
翔馬はさらっと返した。嬉しいこと言いやがって、と思いながら。
ずらりと専門書が並ぶ本棚の前に立つと、紙の匂いに鼻がくすぐられる。目的の本は、案外すぐに見つかった。ページを開いて中身を確認する。
「うわ、何この数式。翔ちゃんこんなのやってるの」
「これ、言っておくけどまだ序の口だぞ」
ページをめくって、翔馬は先日の授業でやった範囲の証明を開く。彼女は文字と記号を追いながら、しきりに小首を傾げている。
「これ数学だよね。私、そこまで数学は苦手だと思ってなかったんだけどな」
「よくこう言われるよな。大学に入ると、化学は物理になって、物理は数学になって、数学は哲学になる」
「哲学ってことか、じゃあ私には向いてないね」
本から顔を上げて、二人で笑い合う。
付き合い始めてから一週間。絵美と過ごす日々はとても充実している。こうして自分のやった行為で心から笑ってくれる人がいるというのが、ここまで幸福なことだということを久しく忘れていた。
それにしても、俺はたった少しの期間の恋なのに、コイツはずっとずっと望んでいたことだったというのが、なんだか面白い。そう言われれば昔からそうだった気もするし、だけど単に幼馴染の親愛的な感情かなと思っていたし、とにかく、それに気付かなかったのは……。
「よし、会計は一階だっけ?」
「うん。あ、でも私も買いたい本あるから行っておいて」
「いいよ、一緒に行く」
今度は絵美に手を取られる。エスカレーターで下のフロアに降り立ち、向かうのは少女漫画のコーナーだ。
ピンク色の背表紙が並び、どことなく独特な雰囲気に少し場違いな感を覚える。
「あったあった」
彼女は一冊のマンガを手にした。その前に置かれたポップには発売したての最新刊であるとの旨が書かれている。翔馬はそのタイトルに聞き覚えがある気がして、何となく尋ねてみる。
「なあ、それ有名なマンガ?」
「え? どうだろ、これが載ってる雑誌の中では人気あるけど」
雑誌の名前を教えてもらって、ようやくピンときた。
まだ始まったばかりだけど、すっごく面白くなりそうなんだ。
高校一年生のときだろうか。澄香からメールでこのマンガのことを教えてもらった。翔ちゃんもどう? と言われ、確か、少女漫画なんか読まねえよ、と軽く返した。そうか、それからもちゃんと続いていたんだ。
むずっと口が動いた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。そろそろ腹減らないか? 飯行こうぜ」
それ、読ませてくれるか? 本当はそう言いかけていた。
今、目の前には大事にしないといけない彼女がいるんだ。過去を忘れて今コイツと向き合おうと決めたんだ。いい加減、そんな幻影なんか、取っ払わないと――。
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