さあ?



 ★☆




 井原駅の改札口は、駅舎の二階のコンコースにある。昔から基本的に構造は変わっていないが、やはり時代の波か、綺麗な電光掲示板がついている。行き先表示を眺めながら、子供の時ですらボロボロだったもんな、と翔馬は感慨にふける。


 井原駅は、昔住んでいた家の最寄り駅だった。今は下宿も学校も最寄りはその何駅か先にある駅で、そっちばかりを使っている。今日はここまで自転車で来て、絵美と待ち合わせることにしていた。


 九時五十五分、約束の時間の五分前。柔らかな陽が差し込む方から彼女は姿を見せた。


「ごめん、お待たせ」


 なぜか少し、心がときめいた。


 こういうシチュエーションの効果だろうか。いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない走り方なのに。彼女が近くまで来て、理由がわかった。服のチョイスがいつもと違うし、それに、唇に艶(つや)やかな色がある。


「どうしたの?」


 いや、と翔馬は少し目をそらす。なんとなく直視しがたい。


「お前、いつも化粧なんかしてたっけ」


「してるよ、失礼な」


「そっか、すまん」


「でも、気付いてくれたのは合格点。どう、魅力的?」


「アホ」


 とても憎たらしい感じで言ってみると、ひどい、と絵美はむくれた。そういうことは言わない方がいいんだよ、と翔馬は心の中でツッコむ。やっぱりいつも通りの絵美だ、なんだか安心する。


「ほら、さっさと行こうぜ。なんで家から遠い俺の方が早いんだよ」


「え、私も時間には余裕で間に合ってるのに」


 言い合いながら、隣り合った改札で二人同時にIC乗車券をタッチする。絵美のものは定期券も兼ねているから、少し違う音が鳴って、綺麗にハモった。


「だけど、なんでこっちの駅にしたの。翔ちゃんは途中の駅から合流でも良かったのに」


「一人だと痴漢とか危ないだろ。ボディガード」


「この線、そんな殺伐としてないよ。毎朝使ってるって」


「本当は」


 言葉を切って、翔馬は窓の向こうを眺める。電線があって、マンションがあって、飛び立つ鳩は空の彼方へ向かっていて。


「本当は、ちょっと確かめたいことがあったから」


 はい? と首を傾げる絵美を横目に、翔馬は先に歩き始める。一段ずつ階段を下りて、ホームに立つと、感じた。


 あの日の続きに、俺はいる。


 駅のホームは、ほとんど何も変わっていない。電光掲示板や目に付く広告のラインナップは変わっているが、あちこちの壁にコンクリートが露出したどこか殺風景な雰囲気も、薄汚れた待合室も、電車の通過ベルのやかましい音だって、変わっていない。


 前から二両目、一つ目の扉が来る場所。最後の日、俺は、確かこの場所に立っていた。


「あの自販機もあったな」


 向かいのホームには、青い自販機がある。


「よく覚えてるね。翔ちゃん、意外なこと覚えてるよね」


 忘れはしない。あの日、あの自販機にあるぶどうジュースが見えて、飲みたいなと思ったけれど、買いに行く時間が無かった。隣にいた澄香に伝えると、「そんなのいつでも飲めるじゃない」と笑った。


 そう、俺はいつでも飲める。アイツもいつでも飲めた。澄香が好きだったあのジュースを二人で飲めるのは、最後だった。


 あのとき、なんでもっと二人の最後を作っていかなかったんだろう。そんな思いが唐突に頭をよぎる。引っ越す前の数日は、忙しくて遊ぶ暇もなかったという理由はある。精々お別れパーティーをみんなに開いてもらったくらいで、それだって澄香以外の人がいた。でも今ならちゃんと、最後を作らなかった理由もわかっていて、それをしてしまうことで本当の「最後」になるかもしれなかったから。それを恐れていたから。


 そして、結局「最後」として残ったのは、あの言葉とあの指の感触だけだった。


「なあ、絵美」


「なに?」


 翔馬は隣に立つ絵美と小指どうしを結びつかせた。ほんのわずか、数秒間だけ。


「翔ちゃん……」


 指が離れた瞬間、彼女の戸惑う声がした。ああ、自分だって、戸惑っている。


 自分は、何をしたかったんだろう。あの日の記憶を共有したかったんだろうか? 絵美と澄香を勘違いしたんだろうか?


 もしくは、リスタートしたいと思ったのかもしれない。


 この数日、なぜか、絵美とこの駅に来れば何かがわかる気がしていた。その正体を、ようやく掴めた気がする。絵美だってきっとあの日のことは覚えている。小指を繋ぐ、その行為の意味がわかる相手に、自分の意志を伝えたかった。再び、ここから始め直したいと。


 無意識に繋いでしまった右手の小指には、絵美の体温と感触だけがわずかに残っている。そこに、再び同じ感触がぴったり重なる。


「……ゆびきり、げんまん」


「何を?」


「さあ? 今日、楽しませてくれることでいいかな」


 小さく頷いて、翔馬はその小指に、そっと力を込めた。



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