98章

今から数年前――。


ストリング帝国がこの街に歯車の街ホイールウェイと名付け、工業がさかんになり始めた頃――。


労働者と帝国はたがいにうまくやっていた。


それは、今は亡きクリアの夫であったブレイブ·ベルサウンドが労働組合を作り、当時の帝国の幹部かんぶとの交渉によるおかげであった。


それがコンピューター·クロエによる暴走で、世界中が合成種キメラに埋め尽くされた中で、ストリング帝国にはおよばないにしても、まだ文明が残っている理由だった。


労働者たちの生活は、けして贅沢ぜいたくなものではなかったが、まずしいながらも懸命けんめいに働き、今までの暮らしとは比べものにならないほどうるおうことになる。


歯車の街ホイールウェイの住民たちは、誰もがブレイブに感謝していた。


この崩壊ほうかいした世界で唯一ゆいいつ高度な科学力をほこるストリング帝国を相手に、うまく立ち回っていた彼に敬意を持っていた。


クリアも、自分なりのやり方で街を守る夫を誇りに思っていた。


そんなときに――。


ある人物が、この歯車の街ホイールウェイに現れた。


背が高く、腰まで届くロングヘアをなびかせる姿は、誰が見ても美しいとしか思えない女性だった。


彼女はフルムーンと名乗った。


この工業街である歯車の街ホイールウェイの噂を聞いて来たという彼女は、微笑みながらブレイブとクリア――ベルサウンド夫婦に言ったという。


“あなたたちの役に立ちたい”


フルムーンは、世界が荒廃こうはいし、奪い合うばかりで他人と手を取り合えない人々が増えているというのに、この街は素晴らしいと続けた。


そんな噂を聞いて、歯車の街ホイールウェイへやって来たのだと。


ベルサウンド夫婦はそれを受け入れた。


街のために力を貸してくれるのなら大歓迎だと。


実際、フルムーンは有能な女性だった。


ストリング帝国から言われた厳しい納期のうきも、彼女の立てた計画によって何度も乗り越えることができたし、何よりも労働者たちに信頼され、愛された。


ベルサウンド夫婦の負担も減り、街は以前よりも潤い、すべてがうまくいっていた。


だが、ある日にそれは、音を立ててくずれることとなる。


ベルサウンド夫婦が、いつものように工場へ行ってみると、すべての機械が止まっており、誰も仕事をしていなかった。


それから他の工場も回ったが、同じように誰もいない。


2人が「おかしい」と話しながら街を歩いていると――。


「もっとゴールドを出せッ!!!」


「そうだ!! 俺たちはもっともらってもいいはずだッ!!!」


「労働の権利ってやつをよこせッ!!!」


働いているはずの労働者たちが、集団となってストリング帝国の屋敷を囲って抗議こうぎしている。


怒声を浴びせ、手に持っている空っぽの酒瓶さかびんを投げつけていた。


ベルサウンド夫婦はすぐにそれを止めに入ったが、誰も2人の言葉に耳を貸そうとはしなかった。


労働者たちは、まるで糸であやつられたマリオネットのように、うつろな表情で声を張り上げ続けている。


すべがないベルサウンド夫婦の前に、毛皮コートを羽織ったドレス姿の女性――フルムーンが現れる。


「あはッ! これはもう止められないわねぇ」


ベルサウンド夫婦は彼女を見て、目をうたがった。


そこにいた女性は、かつて“あなたたちの役に立ちたい”と言った人物とは別人のようだったからだ。


口調は下品になり、態度や仕草しぐさなどもおかしい。


そして、彼女の顔までも変わっていた。


美しかった顔は――もはや美しいなどという生易なまやしいものではなくなっており、この世のものとは思えぬほど神々こうごうしい――あるいは禍々まがまがしい――までの官能美かんのうびの持ち主となっていた。


フルムーンのれた瞳で見つめられれば、枯れ果てた老人でさえ残った精があふれ出し、同性である女性でさえとりこにしてしまう――。


そんな恐ろしいまでの魅力をはなっていた。


「ま、まさか!? フルムーン、あなたが……?」


ふるえる声でたずねるクリアを見て、フルムーンは「あはッ!」と口角をあげ、人混みの中へと消えていった。

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