92章

この工業街――。


歯車の街ホイールウェイを男性の身体に例えるなら、間違いなく股間こかんだ。


いわゆる歓楽街で、夜の間だけその本性を表す。


もしストリング帝国の住民がこの街に来たら、その毒気にやられて2度と元の生活には戻れないだろう。


何故ならばストリング帝国の住民たちは、労働などしたこともないし、アルコールも煙草たばこもやらない。


ギャンブルも娼婦しょうふ男娼だんしょう相手に遊びもしないからだ。


完全無菌状態の人間にとって、この街は麻薬のようなものだ。


一度味わえば、もうその魅惑みわくからは逃れられない。


アンたちは、クリアの助言を聞いて、夜から聞き込みを開始することにした。


クリアは別れ際に「よかったら聞き込みが終わってからでも、夕食をうちへ食べに来て」と丁寧に言ってくれた。


そんな彼女のご厚意にアンたちは、すっかり甘える気でいる。


「今からクリアの料理が楽しみだね」


「そうだな」


クロムがクリアの料理を楽しみにしていると、ロミーが同意していた。


いつもと同じで無愛想だったが、彼女にしてはめずらしい。


「お前たちはしゃぎ過ぎだぞ。次は大人しくしていろよ。そう何度も家の中で暴れられたらクリアに迷惑だ」


アンの言葉を聞いたロミーは、何か言いたそうな顔をしていたが黙っていた。


そんな彼女の両肩に両手で掴んだクロムが耳元で「ちゃんと我慢がまんできたねぇ、偉い偉い」と小声で言っている。


ニコとルーは、そんな2人のマネをしてか、同じような体勢になっていた。


「ところで聞き込みというのは、どうすればいいんだ?」


「ただ道行く人に訊けばいい。そんなこともわからないのか」


アンの言葉を聞いたロミーが冷たく言った。


歯を食いしばったアンは、それをこらえて言葉を続ける。


ただ闇雲やみくもに訊いて回っていてもらちが明かないのではないかと。


「それなら……」


その質問に対してルーザーが答えた。


情報が集まりそうなところといえば酒場。


もしアンの捜している人物である――シープ·グレイがアルコールをたしなむのなら、かなりの確率で1度くらいは利用しているはずだと言う。


「すごいぞルーザー。さすがは世界を救った“元英雄”だな」


――アン。


「ジイさんといっても“元英雄”だけのことはある」


――ロミー


「だねだね。さすが“元英雄”ッ!!!」


――クロム。


各々おのおのが彼をめた。


ニコとルーもルーザーをたたえるように、彼の周りを飛びねている。


「そんな元、元言わんでも……。しかも英雄は関係なくないか……」


だが、ルーザーはあまり嬉しそうにはしていなかった。


それから酒場へと向かうアンたち。


すっくり暗くなった街の中にも、昼間と同じように歯車の音が聞こえ、蒸気の煙がただよっている。


そのせいかロミーやクロムは、度々たびたび咳き込んでいた。


アンが心配して声をかけると、2人はそろってここは空気が悪いと返した。


無理もない。


ロミーやクロムは、隣の大陸――雪の大地でそだったのだ。


過酷な環境ではあるが、んだ空気が吹く大自然の中で生活をしていた2人にとって、オイルの匂いや、煙突えんとつから出るモクモクとした蒸気は受け付けないだろう。


心なしか電気仕掛けであるルーもけむたそうにしている。


アンが「ルーザーは平気なのか?」訊ねると、彼はどうしただがわからないが、大丈夫だと返した。


「さすがは世界を救った元――」


「そのくだりはやめろ」


辟易へきえきした様子のルーザーが、彼女をさえぎって言った。


それから、しばらく歩くと酒場を発見した。


石造りの2階建ての建物だ。


日に焼けて褪色たいしょくした壁には、ところところヒビが入っている。


アンは、スイング式の扉を開けて中へと入った。


むッとする酒の匂いが鼻につく。


店内は外に負けないくらい薄暗い。


中にいた果実酒のびんを握ってあおっている男たちが、一斉にアンたちを見た。


そんな視線を気にせずに、アンはカウンターへと向かう。


カウンターのテーブルを指でトントンと叩く。


ベタついた感触がアンの指に残って、彼女は内心で気持ち悪いと思った。


酒場の主人は、アンを見て近づいてくる。


飲食業をやっているというのに、酷くあぶぎった不潔ふけつそうな男だった。


アンは酒場の主人に、手書きで書いたグレイの似顔絵を見せた。


「この男がこの店に来なかったか?」


「さあ」


興味なさそうに言う酒場の主人。


その返事は早過ぎだった。


アンがその態度に苛立って、注意しようとすると――。


「まあまあ。ところで主人。注文をいいかな」


ルーザーが間に入ってくる。


アンは、なるほど、と思った。


ここは酒場なのだ。


まずは、アルコールを頼むのが礼儀であろうと思ったのだ。


「コーラハイボールを1つ」


「コーラハイボール? じいさん、そんな酒はねえよ」


酒場の主人がそう言うと、店内にいた他の客たちが大笑いし出す。


――コーラハイボールってなんだよ?


――さあな。きっと女子供が飲むような洒落しゃれた酒だろう? だって、実際にこのじじい子供ガキ連れてるしよ。


ルーザーを侮辱ぶじょくするような言葉が、一斉にアンたちに向けられた。


アンは機械の右腕に力を込め、ロミーも腰に帯びたカトラスを握る。


2人とも無表情だったが、傍にいたクロムとニコ、そしてルーが、そんな彼女たちに気がついて慌てて止めた。


「なあ、爺さん」


客の1人がヘラヘラとルーザーへ近寄ってくる。


その手には果実酒の瓶が握られていた。


「なんだったら俺が1杯おごるぜ」


「ありがたいな。 せっかくだし頂くとしようか」


ルーザーは笑みを返すと――。


バリーンッ!!!


突然ルーザーの頭に、果実酒の瓶が叩きつけられた。


倒れるルーザーに、アンたちがけ寄る。


瓶の破片はへんで切ったのか、ルーザーの頭から血が流れていた。


おまけに中に入っていた果実酒で、着ていたボロボロの法衣ローブがずぶ濡れになってしまっている。


「ここはジジイや子供ガキの来るとこじゃねえんだよ。ミルクでも飲んでさっさと帰りやがれ」


男はそう言うと、千鳥足ちどりあしで店を出て行った。


その姿を見たアンは怒りに震えた。


大の男が、小柄な老人を相手にすることではない。


そう思うと自分をおさえられなくなった。


「アン、いいんだ。気にしなくていい」


そう言ったルーザーは、顔のかかった血をぬぐうと、酒場の主人に果実酒とレモネードを注文し、空いているテーブルにアンたちを座らせた。


だが、アンはまだ苛立っていそうだ。


そんな彼女を見たせいか、冷静になったロミーがルーザーに訊く。


「どうしてあいつらにやり返さないんだ。ジイさんなら簡単だろう?」


ルーザーは果実酒をグラスについで、それをゆっくりと飲み始めた。


そして、ロミーに向かってニコッと笑う。


「むやみに力を使うものじゃない。それに、ただ私が殴られただけだよ。お前たちがケガをしたわけじゃないからな」


聞いていたアンがうつむく。


……っく、クリアの前で、自分は年齢よりも大人だと言っておきながら、このていたらく。


これじゃロミーの言う通り、年齢よりも子供じゃないか……。


アンは彼の言葉を聞いて、自分が酷く子供だと感じていた。


そんな彼女に向かって、ルーザーが微笑む。


「だが、正直苛立ってはいるよ。さっきの男の顔にてのひらを当てて吹き飛ばしてやりたい気分だ」


「……ルーザー」


「ふふ、この歳になっても私はまだまだ子供だな」


その言葉に、全員の顔に笑みを浮かんだ。


アンは、自分を落としてはげましてくれたルーザーに、内心で礼を言う。


それから酒場で聞き込み始め、何人かがグレイのことを店で見たという情報を手に入れた。

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