野沢明人という男

 野沢明人。彼の人生は悲劇の連続であった。

 秋義一行のように信頼の絆で結ばれた仲と呼べる者は一人もおらず、たった一人で夢を目指した。著名なバンドマンであった亡き祖父の背中を追いかけて、日夜音楽活動に耽った。努力の成果もあって、才能を認められた野沢であったが、ドラッグに溺れていた同じ事務所の大御所らを告発したことで、栄光ある未来が転覆した。

 事務所の連中にドラッグを注入された野沢は、刑務所に入れられて五年の懲役を受けた。就寝中にドラッグを打ち込まれたこともあって、禁断症状にも苦しめられた。

 時間の全てを音楽に捧げ、ついに叶えたい夢が目の前まで迫ったところで、夢を奪い去られてしまった彼の絶望は計り知れない。薬に溺れた社会不適合者というレッテルは懲役を終えた後もずっと付いて回り、誰一人として彼を、彼の音楽を、全うな心で見てくれることはなくなった。

 音楽こそ人生の全てであった彼に、過去に戻ることが出来る今の状況は絶好の機会だった。

 ――もう一度、栄光の人生を獲りに行ける。観客の悩みや苦しみをぶっ飛ばす音楽を奏でることが出来る。

 その事実は彼を否が応でも胸の内側から熱くさせた。自分が奏でる音で揺れる会場、自分の声で沸く観客。これまで形にしてこなかった幾千もの音のフレーズが脳裏を巡る。狂熱を乗せたハードロック、恍惚としてしまうようなムード溢れるバラード、軽快で羽が生えるようなポップ。世の中に激震を与えることが出来ると確信できる音楽達が、野沢明人というハートの周りを旋回している。

 思い出を順繰りに想起するほど、彼の周囲にたゆたう透明の玉が増えていた。その全てに楽器を持って輝きを放つ、夢に満ちた若かりし己の姿が映っている。

「今度こそ、お前の夢が叶うと良いな」

 と、彼はアマネの捨て台詞を反芻した。

「あいつ、珍しく怒ってたな」

 クスりと一笑した。……そして目頭が熱くなっていく。理由は端から分かっている。

 ぽんっと彼の目の前に、もう一つの玉が現れた。都会の裏路地でギターを奏でる自分が映っっている。

 ――そして。彼の隣には、歌をうたうアマネの姿があった。二人とも嬉しそうで、楽しそうだ。

 今度は声も無く静かに笑った。

「まあ、過去と現在を見つめ直す良い機会になったわな」

 すっきりした笑みを浮かべながら、彼は濃霧へと歩み始めた。両手をポッケに突っ込み、背中を丸めて。いつも通りの彼のまま。

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