第60話

 「あったかいね」


 一人用のベッドに二人。

 恋人でもない僕らが、ねている。


 二人で同じベッドにいるから気温は高い。

 でも、夏だから、暖かさを通り越して僕は暑さを感じる。

 身体のどこかに汗が浮かぶのを感じた。


 「…………」


 しばらくは無言だった。

 もう寝たのか、と思っていた。

 でも、違った。


 「ねえ、雅人さん」

 

 陽菜乃の声がした。落ち着いた声だった。


 「夜、たまに寝れない時ってない?」

 「……あるよ」


 夜、やけに目が冴えていて、眠むれない。

 そんな夜は、きっと誰にだってある。

 ないほうが不思議なぐらい、人生に何度か経験する。なぜ起こるかは、よく分からない。

 

 「私ね、それが毎日なんだ」


 僕らはお互いに背を向けて寝ていた。

 だから、陽菜乃の声は遠ざかるように聞こえる。山びこの残滓のように。

 だから、僕は耳を澄まして、陽菜乃の声を聞く。


 「寝よう、って思って目を瞑る。でも、気づいた頃には天井を見てるんだ」


 心理的ストレスは睡眠に害をもたらす。

 交感神経が活発化されることによる、副交感神経の抑制。

 だから鬱の人は、よく、眠れない。


 「私、夜が怖いよ」


 陽菜乃の幼げな言葉に混じる不安。

 声色だけでそれが分かった。

 大丈夫だよ、なんて言えなかった。

 

 「明日になってもこの世界が悪夢で、覚めなかったらどうしよう、っていつも思う」


 陽菜乃は今にも消えそうな声で、言う。


 「ねえ、いつになったら覚めるの?」


 悪夢なんかじゃない。

 覚めないんだよ。

 僕は言いそうになる。


 陽菜乃は少し、狂ったように、続けた。


 「ねえ、早く元の世界に戻して。もういいから、充分だから……こんな世界、夢なんでしょ?幻想なんでしょ?だったら早く出してよ……こんな世界狂ってるよ……」


 そう、陽菜乃がいくらまくし立てようとも、この世界は変わらない。

 たぶん、それを、陽菜乃はわかっている。

 

 「いつになったら私は……」


 今もなお、僕たちは背を向けたまま。

 向かい合おうともせず、僕と陽菜乃は横たわっている。死んだみたいに、ずっと。


 僕たちはいつまでこのままなのだろう?


 いつになったら向かい合えるのだろう?


 向かい合ったら何があるのだろう?


 そんな疑問を口に出すこともせず、僕は目を瞑りながら、現実から逃げる。


 「雅人さん、どうすればいいの……?」

  

 必死に目を逸らして、瞑って、覆って。

 それでも見える光を消そうとして。

 僕は無理に目を開けて、言う。

 

 「この世界と向き合うんだよ」


 この世界と向き合って、人を殺して。

 今までの自分を殺して。忘れて。


 「向き合って、正常になるんだ」


 異常な僕らに先はない。

 正常にならないと先が見えない。


 「早く僕たちも向き合わないと……」


 正常ってなんだ。

 ついこの前までの正常が、いつの間にか分からない。

 だから、早く今の正常になろう。

 くだらない信念なんて捨てて大人になろうよ、と思う。


 「分かってるよ、そんなこと」


 後ろからそう、聞こえる。


 でも僕たちは、朝になるまで、

 お互いに向き合うことはなかった。



ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

説明書 No.60


一、二、三、四、五、六、七、八、九……

時が経っていつか、気づく。

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