色の逡巡
第46話
長老の家は、何というか、『長老』って感じだった。
風流な流木や、苔玉、そして木刀。
本当に『長老』って感じだ。
「今日は、ありがとうございます」
きっと、外で寝ていたら大量の蚊に刺されていていただろう。本当にありがたかった。
「いいんじゃ、そんなこと」
長老は言って、台所に向かった。
「夜ご飯は何がいいんじゃ?」
「任せます」
「じゃあ、麻婆豆腐でいいか?」
「えっ......あっ、はい」
正直、意外だった。
もっと、鯖の味噌煮とか高野豆腐とか『長老』っぽいやつを作ると思っていた。
「ちょっと、待ってろ」
言われた通り待っていると、十五分ほどで美味しそうな麻婆豆腐が運ばれた。
「じゃあ、食べようか」
「いただきます」
長老の作った麻婆豆腐は、思ったよりも美味しく、意外と辛かった。
* * *
「わしの息子はな、
麻婆豆腐が好きだったんだ」
長老は言った。
やはり、寂しかったのだろうか。
「もう、三十年近く前だけどな」
そう言って、長老は昔話をした。
長老曰わく。
息子は三十年前に島を出て、それ以来帰って来てない。
そして、手紙が送られたこともない。
噂話を聞いたこともない。
五年前、奥さんを亡くして、一人暮らし。
毎日、家に帰るといつか見た息子の影が見えるという。
「小さい頃から優しい奴でな。でも、島で暮らすには頭が良すぎたんだ」
医者になりたい、そう言って島を出たという。その夢が叶ったのか、叶わなかったのかは長老には未だ分からず、生きているのかすら分からないのだ。
悲しい話だ、と思った。
「昔は、割と栄えていたこの島も、今じゃ老人だけの島だ。だからあんたみたいな若人が来てくれて嬉しいんじゃよ」
嬉しいといいながら、長老の顔は悲壮だ。
「あいつは何やっとんかのお......」
長老のため息は、死んだようだった。
「たぶん、元気ですよ」
僕の根拠のない励ましは、当たり前のように長老の横を通っていく。
僕だって、励ましになっているとは思ってない。
生きているかも分からない、僕とは無縁のその人が元気だって根拠はこの家に、どこにも転がっていない。
例の玄関の写真だって、もう三十前の写真だ。写真にあったこめかみの傷が、今現在、どうなっているのかも分からない。
「まあ、わしの子供だ。元気だろう」
気持ちを切り替えたのか、長老はにこりと笑って、席をたった。
「風呂沸かしてくる」
長老の息子が今どうなっているのか、僕には分からない。医者になったのかもしれないし、もしかしたら政治家になっているのかもしれない。
可能性というのは恐ろしいほどに、広大でそして無意味なものだ。
* * *
「風呂入りなさい」
五分して戻ってきた長老は言った。
長老はさっきより老けて見えた。
そうやって長老を見ると、長老のこめかみに傷があることに気づいた。
「じゃあ、お先に」
きっと、今も長老の息子のこめかみには傷が残っているだろう、そんな気がした。
息子のことを考える長老を見ていると、不意に父と母の顔が浮かんだ。
今、元気だろうか。
そんな、無意味な可能性のことを僕は考えながら、熱めのお湯に浸かった。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
説明書 No.46
私はいつだって後悔している。
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