第32話

 「父さん、血が.........」

 父さんの頬には、猫に引っかかれたような細い傷が複数あり、そこから血がたらりと顎の先まで伸びていた。


 「大丈夫、かすり傷だ。でも、恐ろしいな。本当にナイフで襲ってくる」


 父はそう言って、傷口に手を当てた。

 痛みが走ったのだろう、父さんはあからさまに顔をしかめる。


 「何があったんだ?」

 僕は思わずそう訊いてしまった。

 今はそれどころじゃないのに。


 「あんた何言ってんの! 先に手当てしないと父さん死んじゃうよ!」

 死ぬ程の傷ではないと思うが、今のは自分が悪かった。


 ひとまず、父は母さんの手当てを受け、頬の傷の血は止まった。母もようやく落ち着いたのか、母さんはコーヒーを淹れている。


 「それで......何があったんだ?」

 僕は正面に座る父さんに、訊いた。

 

 「行きは良かったんだが、帰りに後ろから刺されそうになった」

 父は顔色一つ変えず、淡々と話した。

 「なんとかその一撃は避けたが、避けた反動で隙を与えてしまった。そこでやられた」

 刃物を持った相手に、丸腰でよくこの傷で済んだものだ。伊達に黒帯ではない。


 「そう、無事で良かったよ。僕も風邪治ったから、明日からは無理しないでくれ」

 さすがに危険なことが身にしみたのか、父は素直に頷いた。

 「だが雅人、正直な話このままでは生活が保たん。もし俺が無理言っても許してくれ」


 「分かった」

 病み上がりの僕は、鼻を啜って了承する。


 「さあ、お父さんも無事だったことだし、ご飯食べましょ」

 母さんがパンと手を叩き、料理をテーブルに並べる。今日はパスタだった。

 

 「いただきます」


 父は手を合わせ、いつも通り呟いた。


        * * * 

 

 次の日、僕は父さんと一緒に出勤した。

 まるで水に青色の絵の具を溶かしたみたいに雲一つない天気のいい日だった。

 

 そんな明朗快活な散歩日和に、僕と父は後ろを気にしながら歩く。

 

 僕がいるから安心、と油断できない程の殺気がどこかから漂ってきていたのだ。


 あの電柱の影とか、家と家との間とか、どこに潜んでいてもおかしくない。


 今日はすでに二人、死体を見ている。


 それ程までに、緑の人たちは死に怯え、安心を求めている。結果から言うと連鎖的に

広がった殺人は恐ろしいくらい早く広がっていった。国の狙い通りに。


 だけど止める方法がない。

 どうしようもないのだ。


 僕は父を無事に送り届け、自分の会社に入った。もう、社員の半数は出勤している。

 緑から紫になった手をして。


 なのに僕の風当たりは未だ強い。

 「あはようございます」

 このあいさつを誰もが無視した。

 

 ............ん? 誰も?

 あれ、高木は?

 

 「課長、高木は今日休みですか?」

 当たり前のように課長の手は紫だ。

 「いや、何も聞いてない」

 課長はぶっきらぼうに言った。


 僕は高木に電話をかけた。

 もしかしたら、行くときに何かあったのかもしれなかったからだ。


 『...............お掛けになった電話番号は』


 高木は電話に出なかった。

 嫌な予感が背筋を凍らせる。


 「おい、雅人。電話だ」

 固まっていた僕を課長が呼んだ。

 「誰ですか?」

 「知らん。自分で確認しろ」

 課長の口調は、すでにぶっきらぼうを通り越して乱暴なものになっていた。

 普段だったら心底イラついただろう。


 でも、今はそれどころじゃなかった。

 僕は固定電話を操作し、電話をとる。


 聞こえてきた声は、女性の声だった。

 恐らく、四十代ぐらい。


 『もしもし、佐原雅人です』

 『あっ......すいません。お時間取らせて』

 『いえいえ、どういったご用件ですか?』

 このとき僕はなぜか、すでに察していた。

 『私、高木浩也たかぎひろやの母ですけど.........』

 この電話は何を目的にかけられたのか。

 『今朝、うちの高木は.........』

 そして、高木がどうなったのか。

 『今朝、う......うちの高木浩也は』

 分かりきった残酷と、クソみたいな世界。


    

  『何者かに刺され、殺されました』



ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

説明書 No.32


罪悪感は死ねば忘れる。



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