ブラックハット天国
裁判官、検察官、弁護士…そんな職業を目指す者が半数以上を占める来橋ゼミは、会話のレベルが高等過ぎて、俺は気後れの日々を過ごしていた。
しかしそんな俺でさえ、この日の来橋教授の講義は、非常に興味深く、すっと腹に落ちる話も、納得のいかない話もどちらも新鮮で退屈しなかった。
長年、日本司法の中枢で様々な犯罪と向き合って来た来橋千秋教授は、この頃(今から15年前)特に日本のサイバーセキュリティ感覚の欠如を大いに憂い、その危機感を様々な方面に訴えていた。
来橋ゼミの研究テーマは
「“ 起訴、起訴猶予、不起訴 ” 担当検事の着眼点」
しかしこの日は特別テーマだった。
もっぱらサイバー犯罪とその背景にある日本の事情的な話に終始した。
この日、俺なりに理解した来橋講義の内容を粗っぽく整理すると…
…日本は極端な文系社会である。
それは、文系の人間(政治家、官僚)が一方的に法律を作っているのだから自ずとそうなる。
したがって、法の番人である警察も文系中心の組織となった。
一方、コンピュータは理系の産物である。
情報学は文系も含まれる場合が多いが、プログラムの基本となるアルゴリズム(算法)を考える上では、ロジカルな思考ができる能力は数学脳となる。
文系の情報学は、あくまで理系が築いたモノを有効活用する学問なのだ。
警察庁のトップは常に文系中心だ。
しかもコンピュータを苦手とする世代が、巨大な権力者として君臨している。
ちなみに権力を監視する使命を持つと言われるメディアは、さらに文系の集合体である。報道関係者は概ねコンピュータには疎いように感じる。
警察社会は “ 手柄を上げる ” 事が至上命題であり、警察
警察
非常に嘆かわしいが、それが階級社会の実情だ。
サイバー犯罪は実態が不明瞭で、対策を施しても手柄が見えにくい。
メディアの扱いも大きくない(大きく展開する知識がない)。
しかし対策には、莫大な費用と時間を要する。
要するにサイバー犯罪対策は、警察
日本の警察
来橋教授はサイバー犯罪における日本の法整備が、各国に比べおそろしく遅鈍だった背景をこのように論じた。
しかしこの現状は、さすがのマスコミも黙っていない。
警察はマスコミに煽られる形で、重い腰を上げた。
確かにサイバーテロの事案でも発生しようものなら、日本の警察は世界中から非難される事態と為りかねない。
慌てた政府は国家レベル、警察庁レベルのサイバーセキュリティに莫大な公費を注ぎ込んだ。
今や官公庁や金融機関、大企業のサイバーセキュリティは世界トップクラスかも知れない。
高度なコンピュータスキルを持った技術者はすべて中央に集められたのだ。
逆にその反動で地方県警のサイバーセキュリティ対策は、益々悲惨な状況となった。
サイバー犯罪捜査官(ハイテク犯罪捜査官)は、日本全国の警察のサイバー犯罪対策部門に所属し、コンピュータやコンピュータネットワークの専門的な技能を有する警察官である。
しかし捜査官のスキルがサイバー犯罪のレベルにまったくついて行けていないのが地方警察の実情である。
民間から優秀な技術者を募ろうとしても、まったく無駄だった。
サイバー犯罪者を追い詰めるようなスキルレベルを持つ技術者は決して警察官にならない。
そのスキルを民間企業で生かせば、倍以上の収入が得られ、倍以上の休日が過ごせるのだから…
彼らにとって、24時間、365日奉仕する警察官の生活は驚きでしかないのだ。
これは来橋教授がサイバー犯罪を担当する地方警察官から直接聞いた嘆きだった。
そして…
今や南洋市のような地方都市は、ブラックハット(情報の破壊や不当な複製、アクセス制御の突破など、不正な利用を行う者)天国と言われているのが実情だと言う。
来橋教授の教え子が、静岡県警のサイバー犯罪対策室の課長をしている。
階級は警視。
10年前、学生時代に基本情報技術者の資格を取得していた。
その警視は10年前に取ったその資格だけを理由に、サイバー犯罪対策室のトップに据えられたという。
そして五人の部下も、似たりよったりの事情で異動して来ている。
彼らは今、眠る時間を削って勉強の毎日を送っているらしい。
その方法は主にホワイトハット(コンピュータ技術に関する高度な知識・スキルを持つ「ハッカー」の中で、その技術を善良な目的に利用する者)が集うハッカーコミュニティに参加して、経験者の知識を吸収する事でスキルアップをはかるのである。
そんなハッカーコミュニティの中で最近、実態の知れない “ ネットワークの悪魔 ”と言われる存在を知ったと言う。
コミュニティは、その悪魔を “ パンタグラファー ” と呼んでいた。
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