1杯目 ほっとココア
本当に家出をしたかったわけではない。
ただ、ほんの少し距離を置きたかっただけ。
自分の意見が言葉にできない、伝わらない場所から、人から逃げたかっただけだ。
決めつける言葉しか吐かない人から逃げたかっただけだ。
考えがまとまったら、頭が冷えたら、家に帰ろうと思っていた。
否、今も思っている。
しかしながら、考えはそう簡単にまとまらないもので、思考する時間が長くなればなるほど、帰宅することを難しくさせていた。
月見ヶ丘高等学校、通称月見高校。
小さな高校だけれど、高校名にも入っているように丘の上に門を構えている。
天気のいい日の夜には星や月が綺麗に見える、名に恥じない素敵で自慢の学校だ。
一方、僕の名前は
まあ、つまり名前負けしている。
先日、学校で大学入試のための模擬試験の結果が返却された。僕が希望している大学はA判定。このまま継続していけば大丈夫だろう、と担任からのお墨付きも頂いた。自分の学力にあった大学を志望したため、判定が良くないと絶望するところだった。
ほっと安堵し、両親に模擬試験の結果とともに大学について言葉を交わしたのが2時間前だ。
そこで、僕は初めて両親に自分の希望進路を伝えた。話をする機会なんて数えきれないほどあったが、どうも切り出せず、試験結果を皮切りに話をようやく持ち出した。結果から言うと、雷を食らった。
家を出る時に持ち出したスマホの電源を入れる。控えめな光がうつむいた僕の顔を照らす出す。暗さになれた目には少しまぶしく、細目で時刻を確認した。
只今のお時間は21時、補導されるには十分すぎる時間だ。
「帰らなきゃな…」
口には出すが、足が止まらない。ゆっくりだが確実に自宅から離れていくこの足は、さながら赤い靴の少女のようだ。――――僕は男だが。
目の前には駅が見える。夜と言えどまだ21時なので、人がちらほらいる。
疲れ切った社会人、手を擦りながら寒々しく帰路を急ぐ女性、アルコールが入っているのか少し騒々しい集団。先ほどまでに静寂な住宅街を歩んできたので、人々のざわつきに少し安心感を覚えた。
駅前には二脚のベンチがある。一脚は先客がいるので、空いている方に腰を下ろす。
赤い靴の魔法は解けたようで、足は素直に地面に落ち着いた。
疲れた足に視線が落ちる。
さて、と今一度両親との対話を思い出す。あれは対話と呼ぶべきか、言い合いか、どれもあてはまらない。だって僕はほとんど口を開いていないからだ。いや、口は開閉していたが、音を発していなかった。
志望先は、確実に反対されると予想はしていた。
だから話し合いの場を先延ばしにして、準備を整える手筈だった。納得いく志望理由を用意して話す予定だった。
用意できなかったので、無計画のまま話を持ち出した。
予想通り反対され、逃げるように家を出た。
馬鹿馬鹿しい、分かっているのに何故対応しなかったのか。何とかなると、どこか心に甘えがあったのだろう。
家を出る際、少し頭を冷やしてくると伝えて飛び出したので、玄関が施錠されることはないだろう。日付が変わる前に帰宅すれば大丈夫。それまでに考えをまとめなくてはならない。
電車が発車した音を合図に顔をあげた。
「あれ…?」
真正面にある小さな坂道を上ったところに、ぼんやりとオレンジ色の光を放つ看板が見える。
蛍茶屋 OPENと書かれてある看板は、夜がつつむ住宅街で、蛍みたいにぽわっと光っている。
財布もあるし、それに歩いたせいか心なしか喉の渇きを感じた。
僕の足は懲りずに赤い靴を履いたようで、ゆっくりだが確実に、蛍みたいなお店に近づいていった。
からん からりん、
重厚感のあるダークブラウンの扉を押すと、店内にベルが鳴り響く。
店内には、お客は僕しかいないようだ。あたりを見渡していると鈴の音のようなころころとした声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
店内に入ってすぐそこのカウンター席に店員らしき女性が座っていた。エプロンを着用しているし、先ほどの言葉から察するに、座ってはいるが店員なのだろう。
「お好きな席へどうぞ」と言いながら、店員は立ち上がりカウンターの中に入っていった。
カウンターが5席、テーブル席が2つ。おひとりさまは大人しくカウンターに座った方がいいだろう。
カウンター席に腰を下ろすと、先ほどの店員がおしぼりを手渡してきた。
「食事メニューはそちらに、裏面には季節限定メニューがあります。お決まりになりましたらお呼びください」
もらったおしぼりで手を拭きながら卓上に置いてあるメニューに目を通す。
サンドイッチやおにぎりなどの軽食が名を連ねている。裏面にはホワイトペンギンチョコパフェという、甘そうなパフェが載っていた。ホワイトチョコを使っているのだろうか、おいしそうだ。
しかし困ったな。
ざっとメニューに目を通したが、飲料のメニューがない。茶屋と名乗っているのだから飲料が充実しているのだと勝手に思ったのだが。軽食を頼めば水ぐらい付いてくるだろうか。
「おきまりになりましたか、よろしければお先にお飲み物をお伺いいたします」
「ああ、ちょうどよかった。その飲料は何があるんですか」
そう聞くと、店員はふわりを笑みを浮かべて口を開いた。
「当店、お飲み物に関してはメニューがございません。お客様のご気分に沿ったお飲み物を提供しているんです。アレルギーなどがあればお聞きします」
随分おもしろい喫茶店を僕は引いてしまったらしい。
「気分に沿った――というのは?」
「温まりたい、だとか口当たりがいいもの、喉越しがいいもの、落ち着くものであったりとかですね」
「なるほど」
僕がうなずくと、店員は嬉しそうに笑い、小袋を取り出した。
「今ならお飲み物全メニューに、ぺんぎんクッキーがついてきます」
どうぞと差し出された小袋には、ぺんぎんをかわいくして模ったクッキーが一枚入っていた。
「じゃあ、このクッキーに合って、それで落ち着くような、ほっとするような飲み物ください」
「かしこまりました、少々お待ちください」
カウンターの向こう側がキッチンになっているようで、店員はマグカップを用意し、戸棚をあさりだした。
キッチン側は一段高い設計になっており、店員は見えるが手元が見えないように壁が設置されている。出来上がるまでのおたのしみ、ということだろうか。なかなかおもしろい。
しばらく待っていると甘い香りが漂ってきた。この香りは――
「――ココアだ」
ぽつりと呟いた小さな声だったが、店員の耳に入ったようで手元から僕に視線を移した。
「内緒です、と言いたいところですが、さすがにこの香りは誤魔化せないですね」
くすくす笑いながら小鍋からマグカップへ注ぐ仕草を見せた。
熱いのでお気をつけ下さい、という言葉と共に目の前に置かれたのは赤色のマグカップに並々注がれたホットココアだった。表面に削りチョコが散らしてあり、おいしそうだ。
マグカップの縁に口をそっとつけ、火傷しないように流し込む。
夜に出歩いたせいか、体が冷えていたようで口から食道、胃がぽかぽかと温かさを取り戻す。ミルクココアで、ミルクが泡立てられているのだろうか、口当たりがふわふわしている。小袋からクッキーを取り出し、一口かじる。こちらは甘さが抑えられており、さくさくとした触感でココアにちょうどいい。
「いかがですか、クッキーは甘さ控えめなので、とびっきり甘く仕上げました」
「びっくりするほど、おいしいです。このクッキーとの相性が良くて、あ、紅茶にも合いそうです」
「よかった、気に入っていただけたようで。お客様の言う通り、このクッキー紅茶とも相性がいいんですよ。次の来店時には紅茶をお出ししましょうか」
「商売上手ですね」
ココアと共に、穏やかな時間を過ごす。こんな感じでは、考えがまとまらないまま帰宅する羽目になりそうだ。帰宅への足が重い。
「それにしても、お客一人一人の気分を聞いて、作るのって大変じゃないですか」
なんとなく、このお店のサービスについて質問してみた。メニューがある方が断然楽で、良いだろうに。
店員は、すこし考えた後に水色のマグカップを取り出した。中には少量だがココアが入っている。僕の注文の余りだろうか。
「作るのは実は簡単なんです。どういう飲み物がどういう効果を持っているか紐づけしていればいいので――――例えば、ココアにはストレス緩和や気持ちを落ち着かせる効果があります」
ほっとするものを、と言ったからどうやらココアになったようだ。
「一番難しいのは、聞くことです」
「聞くこと、ですか」
手に持っていたマグカップを下ろし、店員は自分自身の目を指さした。
「はい。きちんと相手の目を見て、正しく相手の発言を理解すること、つまり聞くことです。変な先入観を持たず、音を読み取って言葉を理解するのではなく、言葉を読み取って感情や思考を理解するんです」
店員は、そのあとふわりと笑い「注文を受ける際は、特に心がけてます」と付け足した。
音を読み取って言葉を理解ではなく、言葉を読み取り感情や思考を理解する。
なんだが心に沁みる。
そうだ、僕も人の話を聞いていなかった。
聞いているつもりで、ちがう、分かっていないと頭から否定ばかりで理解しようとしていなかった。
聞こう、両親の意見を。もうすぐ巣立つ大人として、誠意をもって。
聞いた上で、そして伝えた上で、双方が納得出来なかった場合は、そうだな。
視線を下げ、目の前のものに手をかけ、飲み残しのココアを一口で飲み干した。ココアはぬるくなっていたが、味は変わらない、ほっとする味だった。
代金300円をテーブルに置き、席を立つ。
重々しい雰囲気を醸し出していた、重厚感のある扉は裏表で装飾が異なっていた。ダークブラウンの外側に対して、内側は温かく親しみのあるベージュ色になっていた。なるほど、これは再来店したくなる。
納得できなかった場合は、このお店のココアを飲みながら、作戦を練ろう。
「ごちそうさまでした、また来ます」
同じ扉を開けるのに、こうも気分が違うことなどあるのだろうか。
僕の足はゆっくりだが確実に、家との距離を縮めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます