啼かない鵺はいつ吠える

日野裕太郎(さつき)

第1話


 夏休みである。

 当然のように暑い。

 高校二年生の夏休み、これといって出かける用事も約束も場所もなく、ひたすらうだるように暑い。

 暑すぎてなにかをする気力がなかなか湧かないでいた。

 いいかげんうんざりしていたところに、小旅行の話がきた。

 聞けば聞くほど乗り気になれない話だったが、耳に入ったときにはすでに、参加することが決まっていた。

 そうとなったら、もう仕方がない。

 いざ現地に到着すると、八月だというのに空気はひんやりしている。

 ちょっとだけ得をした気分になったものの、あたりを見回して高揚した気分は霧散した。

 ――生い茂った樹木、人間の立ち入りを拒否する空気に充ち満ちていた。

 ざくざくという足音と同時に、声が聞こえてくる。

「ほんとにここ、入るの? 正気?」

 うんざりした声だ。

「でっしょ? ありえん……ないわぁ。なさ過ぎて笑えてくるわぁ」

 続いてふてくされた声が横から聞こえて、近江宝おうみたからは心のなかで同意した。

 親睦を深めるため、散歩を兼ねたハイキングをするのだ。前もって知らされていたが、往路のマイクロバスでもあらためて聞かされた。

「ほら、入った入った」

 つるつるの頭で昼の陽光を照り返しつつ、引率の東風ヶ丘こちがおかは声を張り上げる。まだ三十路に突入していないらしいが、強面の効果も相まって、どうしても四十路近くに見えてしまう。

「道沿いにロープが張ってあるだろう? ロープに沿って歩くんだぞ、荷物はバスに置いていけ、さっさと歩けよ――」

 東風ヶ丘の大声に、反りの合わない体育教諭を思い出してしまった。

 途端にうっとうしくなってきて、真っ先に宝は足を動かしはじめる。

 背後の複数の足音と話し声をべつとすれば、空気は清冽な水のようで、宝の好みのものだった。

 ロープが張ってある道の脇では、樹木が旺盛な繁殖力を見せている。その向こうはうっそりと暗い森。目を上げれば、高く広い樹冠に陽がさえぎられている。

 ちらちらと森に差しこんでいる光に、宝は目を細めた。

 朝はやく地元を出発したマイクロバスは昼に現地に到着した。夕方には宿泊地に移動する予定だそうだ。くわしい行程を宝は聞いていない。興味がなかったのだ。元々気乗りしていなかったが、いきたくないと抵抗しても無駄だろうとあきらめ切っていた。

 実際のところ、宝は長い夏休みを自宅で過ごすことにも気が滅入っていたのだ。アルバイトも連日入れられず、かといってどこかに出かけるのも暑さのあまり億劫だった。

 案外小旅行というのもいいかもしれない――同行している、いわゆる親戚筋のひとりに歓迎されていないのだが。

「宝くぅん、なんで旅行きたのー?」

 率直な言葉が背中にかかり、宝は脳裏に桂馬けいまあざみの三白眼を思い起こす。会うといつもそうだ。こちらに対する好意の薄さを、微塵も隠す気のない眼光で見つめてくる。

「宝くんがくるとさ、俺たちだって気ィつかうわけじゃんかぁ」

「やめなよあっちゃん、そういういい方」

 たしなめたのは倉部灯くらべともしだ。

「年下に気遣いしなきゃなんないのって、何気に大変なんですけどぉ」

「あっちゃん、年上ってだけで尊敬されようなんて、

 宝よりもあざみはひとつ上、灯はふたつだかみっつだか年上のはずだ。

 あざみの言葉をいちいちたしなめる彼女は、どこぞの女子大に入学したとか、いつだったか聞いた気がする。

 今朝宝がバスに途中から合流したときには、車内の面々は居眠りをしていた。そのため行路でほとんど口を聞く機会はなく、近況報告をおたがいにする時間はなかった。

 バスに乗りこんだとき唯一起きていて、となりの席に、と手招いてくれた歌門速水《かもんはやみ》も、揺れるバスのなか世間話の合間にあくびを噛み殺していた。自分をとなりに誘ったため、眠気をこらえてくれていたのだろう――結局速水も宝も、途中から寝こけてしまったのだった。

「ともさん、宝くんはこんくらいのことを気にするような、器のちっさい男じゃないっすよ」

「あっちゃん、そのいい方クズっぽい」

 容赦ないその声を聞いた宝は、銀縁眼鏡の向こうにある、彼女の冷たいまなざしを思い出していた。

「うわ、傷つくわぁ。ありえん」

 宝は振り向かないまま、片手を上げてひらひら振る。

「勉強させてもらおうと思います。俺にできることないから、雑用があったらまわしてください」

「えー、ありえん、本家の宝くんに、そんなことさせられるわけないじゃないすかぁ」

「なら、させなきゃいいでしょ。あっちゃんカスっぽい」

「ともさんひどいなぁ」

 後ろにちらりと目をやれば、言葉と裏腹にあざみはうれしそうにしている。

 先頭の宝のすぐ後ろを、あざみと灯が歩く。さらに後方、引率の東風ヶ丘とバスで宝のとなりにすわっていた速水が続いている。

 親族会が企画した小旅行だと聞いていた。

 若者たちに交流させるのだと――それにしては人数が少ない。断れば、もしかしたら不参加にできたのだろうか。親戚間でのこまやかな連絡というものに無縁で、宝はそのあたりがあやふやなままでの参加になっている。

 湿った土を歩く。スニーカーの踵が時々沈む。道の体を為しているのに、ほとんど歩くものがないかのようにやわからい地質だ。ちょっと歩きにくかった。

 強めの風が吹き木立が揺れると、あざみが大きな舌打ちをした。

「ありえん。こんな監視体制、繊細な俺にはとぉてぇ耐えられん。ともさん、俺とふけませんか?」

「私、年下な上にゴミみたいな子っていやなの」

 ぴしゃりと跳ね除けるような灯の声に、聞いている宝の耳が痛くなりそうだ。

「うっわ、ともさん、そんないい方したら宝くんが傷つきますよ」

「あっちゃんのことよ。頭悪いの? ほんとあっちゃんってかわいそう」

 親族会などで同席すると、いつもあざみが灯にいなされているところに行き当たる。あざみ本人も、灯にすげなくされるのがうれしいのかもしれなかった――いつもにこにこしているのだ。

 話し声から離れようと、宝は歩く速度を上げた。

 頬が冷たい。自宅はエアコンがないと脱水症状になりそうなくらい暑いのに、場所を移せばこんなにも気候が変わる。薄手とはいえ、長袖のパーカーを着ていてよかった。

「おい、好きに歩くのはかまわんが、しばらくいくと自殺防止の看板がある。そこで待ってろよぉ」

 東風ヶ丘の濁声に、宝は振り返った。

 そこには東風ヶ丘と速水がいる。

 最後尾の速水は、杖を不器用に使って歩いていた。彼女の身体つきはほそく、見るからに軽そうだ。だがそれは彼女の腕もほそうということでもある。速水が自分の体重を杖に預け、そろそろと歩く姿は痛々しかった。

 バスで彼女は、うっかり転んだ、とはにかんでいた。うっかり転んで複雑骨折なんて、災難そのものだ。

 そんな宝の感想をよそに、「もうリハビリしてるんです」といかにも快癒していくのが嬉しいという顔で、速水は胸を張っていた。

 彼女は中学三年生で、卒業式までに杖がなくてもいいようにリハビリをがんばっている、と話していた。この時期の怪我など、受験に差し支えるのではないかと心配になってしまう。だがバスでの灯からの情報によれば、速水は全国模試で上位に食いこんでいる成績らしい。勉強をしなくても頭がいい子というのも、なかにはいるものだ。

 リハビリをしているのなら、まだ癒えたといえないのではないか。無理に出てこなくてもよかっただろうに――宝がそう思っても、家長がいけといったら、いくしかない。速水のみならず、全員おなじ立場だ。

 それぞれの家長――父であれなんであれ、その命にはしたがうのが常だった。

「……なんで、この面子なんだろう」

 ひとりごちた宝は、面子の前に場所を訝しむべきだった、とすぐ思い直した。

 いわく、自殺の名所――富士の樹海への小旅行。

 ウエストポーチから取り出した飴をかじり、宝は先に進んだ。

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