2017年5月23日(火曜日)
スーパーでのバイトの帰り道、ぼんやり歩いていたら歩道橋の階段から踏み外し、両手のひらを酷く擦りむいてしまった。
全く今日は一日、ついていない。
朝から干した洗濯物は飛ばされるし、道では犬のフンを踏んづけてしまうしで、極め付けがこれだ。
じくじくと痛む手の平の怪我からは、じわじわと血が染み出している。
僕は両手の平を空に掲げて、古臭いフレーズの混じった回復魔法を詠唱した。すると、ゆっくりと手のひらから怪我が消えていった。
痛みはすぐになくならないため、まだ幻覚のように芯の方でじんじんとした感覚があったが、すぐにそれもおさまるだろう。
ポケットの魔力計を確認すると、もう今日の残りの魔力はわずかしかなかった。僕はこの残量で唱えられるような魔法を知らない。
最近はもっと魔力効率のよい回復魔法がいくつも発明され、Youtubeを探せばいくらでも詠唱チュートリアル動画が見つかるのだ。それは分かっているのだが、それでも僕は、昔マンガで主人公が使っていたこの魔法を使いたくなってしまうのだった。
しかし、坂本先輩が作ったというあのグリモアエンジンがあれば、こんな風に魔力の残量や魔力効率を気にすることなく、好きなように、いくらでも魔法を使うことが出来るのだ。
坂本先輩は、グリモアエンジンは無限の魔力を生み出すのだと言っていた。
ただ、あくまでグリモアエンジンが生み出す魔力は坂本先輩にのみ供給されるもので、僕がその恩恵を受けることは出来なかった。
坂本先輩の魔力計を見せてもらうと、そこには横浜市民の全魔力を合わせても足りない程の値が表示されていて、さらに恐ろしい勢いで増え続けていた。
「これって、本当に先輩が作ったんですか?」
僕は、この超常の機能を備えた装置を、いくら先輩といえども、一人で考え造りだしたとは思えなかった。無限の魔力を生み出すなどということは、そんなたった一人のちょっとした思いつきで出来るような事ではないはずだ。
「去年、フランスを旅行してたときにパリの古本屋で偶然見つけた本に、書いてあったんだよ。作り方が」
先輩はそう言って、本棚からくたびれた本を一冊取り出した。
僕はてっきり、書かれてから数百年経っているような、古文書じみた本なのかと思っていたが、それは比較的近代的な装丁のされた本だった。
よくよく考えてみれば、目の前のグリモアエンジンには金属的なパイプやゴムチューブなどが用いられており、かなり近代的な外見をした物体なのだから、それについて書かれた本も、それほど古い本ではないのは当然のことだった。
僕はフランス語が読めなかったので、表紙に書かれている文字も、中に書かれていることも、さっぱり分からなかった。
「無限の魔力の探求ってタイトルで、40年くらい前に書かれた本らしいんだよね」
僕が本をしげしげと眺めていると、坂本先輩はそう言った。
「こんな風に本として出回ってるってことは、他にもたくさん、その装置があって、無限の魔力を得ている人がいるってことですよね?」
僕は坂本先輩へ本を返しながら聞いた。
「そう思うだろう? ところが、このグリモアエンジン以外には、世の中に動いているグリモアエンジンは無いみたいなんだよ。グリモアエンジンは最初に起動したものが有効で、2つ目以降に起動したものについては無効となる、って書いてあったからね」坂本先輩は受け取った本を振った。「自分で作って動かすまでは、すでに世界のどこかで動いているグリモアエンジンがあるから、これは動かないんだろうなあ、無駄になるんだろうなあ、って思っていたんだ」
ということは、その本を書いた人物のグリモアエンジンは、停止している、ということだろうか。使っていた人が死ぬと勝手に停止したりするのだろうか。
だとしても、本が書かれた後に、試しに作った人が何人かは居てもよさそうなものだ。
「このグリモアエンジン以外に動いているものがないのが腑に落ちない、って顔をしているね」坂本先輩は僕の顔を見ながら言った。「そもそもこの本、自費出版で出された本らしくて、総数が少ないんだ。さらに書いた人自体が、オカルトが大好きなちょっとアレな人で、誰も見向きもしなかったんだろうね」
先輩はそういって、無限の魔力の探求を本棚へ戻した。
「それで、先輩はその無限の魔力で、どうするんですか」
僕はずっと気になっていたことを尋ねた。
「別に、何もしないよ。今までどおりさ。ただ、ちょっと他の皆みたいに、自分で好きなように魔法を唱えたり、覚えたり、してみたかったんだ」
坂本先輩はにやりと笑った。
一昨日のことを思い返しているうちに、電車は僕の家の最寄り駅に到着した。
坂本先輩はグリモアエンジンのことを僕にしか喋っていないらしい。完全に黙っているのは辛いから、一番口の堅そうな僕にだけ、打ち明けたのだという。
たしかに、グリモアエンジンの性質上、無限の魔力は坂本先輩が独り占めしている恰好になるため、あまり口外するべきではないことは確かだ。
駅のロータリで、空を見上げている集団が目に入った。みな同じ方向を見上げ、そちらを指さして歓声をあげている。僕も一緒になってそちらを見上げると、なにかひときわ強く光る星があるのが見えた。
しばらく眺めて、ようやく気づいた。
あれが、数日後に地球のすぐ横を通り過ぎる、あらゆる魔法を跳ね返すオリハルコン合金で覆われた小惑星、オデュッセウスなのだ。
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