第六話

 結局、リリィの出番が来るまで違和感の原因は判らなかった。

 次はリリィのソロの舞台だ。

 心臓が口から飛び出しちゃいそう。

 自分でも胸がドキドキしているのが判る。

 気絶しちゃったらどうしよう、間違えちゃったらどうしよう。

〈お嬢さんや〉

 ほとんど蒼白になっているリリィの耳元でブラウン老人が囁いた。

〈お嬢さんは立っているだけでいいんじゃ。歌はオーケストラピットのソプラノ歌手が歌う。お嬢さんは口をパクパクするだけでいい〉

 ブラウン老人が『パクパク』と言いながら片手をアヒルのクチバシのように開けたり閉じたりする。

「わ、わかりました」

 幕が上がる。

 リリィは覚悟を決めると舞台の中心に向かって歩き出した。

…………


 舞台に上がった時から、リリィは背後に視線を感じていた。

 誰かが背後からわたしを見てる。

 でも、誰が?


 指揮者の指揮棒が振り下ろされ、オーケストラピットのクィンテットの演奏が始まった。

 観念し、両手をお腹の前で組む。歌わないまでも、歌っているフリをしないと。

 演奏が始まった曲はリリィもよく知っている曲だった。たまにお皿を洗っている時に口ずさむ曲。

(あ、この歌知ってる……)

 リリィは身体が勝手にリズムを取り始めるのを感じていた。

 ファゴット、クラリネット、オーボエにフルート。ホルンがその下で低音を刻む。

 一旦フルートの演奏が止まると同時に、ソプラノ歌手が歌い始めた。

 それに合わせてリリィも歌うかの様に口を動かし始める。

 もう、観客席は気にならなかった。歌を歌うのは楽しい。

(ソプラノの人、とっても綺麗な声)

 まるで自分が歌っている様な気分になる。とっても楽しい。歌っているとリラックスする。

〈♪〜〉

 気がつくと、リリィは小声で歌っていた。

 ハッと気づき、慌てて口だけを動かす。

(だめ、歌っちゃ。邪魔になっちゃう)

 だがすぐに、また声が出始める。

 気がつかないうちに、リリィは本当に歌っていた。

 歌うと楽しい。気持ちが晴れる。

 ソプラノ歌手との不思議なデュエット。ソプラノ歌手がリードし、リリィが自分の声でハーモニーを作る。

 すぐに、歌声は二人のデュエットから三人のトリオになった。

 女性のトリオ。三人の声が調和し、新たな旋律を産む。それに刺激され、クィンテットの演奏が熱を帯びる。

(誰かが後ろで歌ってる……)

 自分も歌いながら、リリィは背後に熱を感じた。

 とても楽しそうな歌い声。馴染みの歌を歌う声。

 一緒に歌いながらリリィは、ふとその声の正体に気づく。

(そうかあなたが……)

 思わずリリィが微笑みを漏らす。


 不意に、演奏が終わった。

 静かな観客席。誰も一言も口を聞かない。

 誰も手を叩いてくれない。

(……失敗しちゃった)

 リリィは思わず俯いた。

 失敗しちゃった。

 わたしが歌っちゃったばっかりに。

 プロの人の邪魔をしちゃった。


 と、暗い観客席で誰かが立ち上がった。

「ブラボーッ!」

 すぐに他のところからも叫び声が上がる。

「ブラーボーッ!」

 やがて、観客席は割れんばかりの拍手に覆われた。

「ブラボーッ!」

「ブラボーッ!」

 みんな笑っている。とっても喜んで拍手している。

 その時初めて、リリィは役者の喜びを垣間見た様な気がした。

…………


 それから先のことは覚えていない。

 気がついたらカーテンコールになっていた。

 出演者全員、一列に手を繋いで何度も何度もお辞儀した。

 その度に観客席からは「ブラボーッ!」の声が上がり、最後にはおひねりまで飛び交う始末。

 最後のお客さんが帰るまで、リリィは舞台の袖から観客席を見ていた。

 今は掃除係の人が箒とチリトリで観客席を掃除している。

「…………」

 と、リリィは背後にブラウン老人が立っていることに気づいた。

 ニコニコ嬉しそうに笑っている。

「お嬢さん、やっぱりわたしの目は正しかった。お嬢さんにはスターになる素質がある。どうかね、明日も」

 ブラウン老人の目は真剣だった。真剣にリリィを誘っている。

「いえ」

 だが、リリィは首を横に振った。

「わたしは今日一日で十分です。とっても楽しかった。ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げる。

「そうかい? お嬢さんならすぐにスターになれると思うんだがなあ。お嬢さんの歌声は素晴らしかった。あれこそ天使の歌声じゃ」

 感に堪えないという風にブラウン老人が首を振る。

「違うんです」

 リリィはブラウン老人に言った。

「わたしだけではあんな風には歌えません。あの歌声はやっぱり、あの子がいたからだと思います」

 そう言いながら舞台の背後を向く。

「出ていらっしゃい、本物の主役さん。最初からそこにいたんでしょう?」


+ + +


「…………」

 おずおずと舞台の裏から出てきたのは、十代後半の少女だった。

 パンツもグレー、上着もグレー。全身濃いグレーの服を着ている。その少女は麦わら色の髪を束ね、上着の中にたくし込んでいた。

「なんと! レーヴァじゃないか!」

 ブラウン老人が腰を抜かさんばかりに驚く。

「わしらはずっとレーヴァを探しておったんじゃ。一体、どこにいた?」

「……ずっとそこにいた」

「そこにいた? 隠れ蓑クローキングの魔法か何かかい?」

「……んーん、かくれんぼ」

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