6-3―従兄の帰国―

 夏休みに入って七月も終わりに近いある日のことだった。


塾の夏期講習から帰ってきた時子が門から庭に入ると番犬のジョンと一緒にひとりの背の高い青年が出迎えに出て来た。こんなことはこちらの家に訪れてからはじめてのことだったので、一瞬、驚いて目を見張った時子だったが、すぐに従兄の悠紀人であることがわかった。


「やあ」

悠紀人は時子を見ると幾分はにかみがちな表情をしながらすぐに目を逸らし、ジョンの背に掌を添えて跪いた。その仕種もなんとなく叔父の笙に似ていた。少しドキドキしながら時子は悠紀人に話しかけた。


「こんにちは。悠紀人さんですね。イギリスから帰って来たんですか?」

「あ、うん……。一応、向こうのハイスクール、終了して卒業したんだ。大学は日本の大学受験しようと思っていたから、戻ってきたところだよ。父から聞いてなかった?」

「ええっと、叔父さまお忙しそうだから……。もしかしたら、母は聞いているかもしれないけれど私も母も忙しくしていて最近はゆっくり話す時間もなくて……あ、でも、そのうち帰国されるってことはもちろん、聞いてました」

「えっと、時子さんだよね。君がまだ小さい頃に何度か会ったことがあるよね。僕、覚えているよ」

「わっ、私のこと覚えていてくれました?」

「君のお母さんのことも……。最後に会ったのがイギリスに引っ越す前だったけど……君はまだ幼くてとても可愛いらい小さな女の子だったよ」

時子は自分の幼い頃のことを聞かされて急に気恥ずかしくなって俯き加減に話を逸らした。

「ところで家の鍵はどうされたんですか?」

「ああ、父の仕事場に寄って来たから、その時に鍵は預かってきたんだ。父とは時折、連絡は取り合っていたし、君のことも聞いてるよ。母からも少しね」

「叔母さま?そう……、もしかして昔のこと?叔母さまは今、イギリスにいるんだよね?叔母さま、私たちが叔父さまと一緒に暮らしていることをどう思ってるかなんだか気になる」

時子は不意にぽつりと呟いた。


「あなたもなぜ、そんな風にあっけらかんと私に話しかけてくるのか理解できないわ。叔父さまと叔母さまは離婚したんだよね」

「……そう、離婚してからもう一年以上になるし、離婚する前も父と母は離れて暮らしてた。僕は寮に入ってたから詳しいことはわからないけど、もう、父と母が一緒に暮らすことはないと思うよ。一緒に暮らせなくなってしまったと伝えられたし……」

「……そうなんだ」

「ごめん、ごめん。なんだか、嫌な思いさせちゃったかな」

「いいのよ。話を私がもちかけたんだもの」

「君は父が嫌い?」

「いいえ、そんなことはないわ。私も母も叔父さまに助けてもらったようなものだもの」

「そんな言い方は君のお母さんに対して失礼だと僕は思うな。君たちはそれまではふたりでしっかりと生きてきたんだから」

「そうだったわ。だけど叔父さまと暮らすようになってから得た安心感は私にとっては絶大だったわ。叔父さまと母に感謝したいくらい」

「ところでこんなところで立ち話もなんだから家の中に入ろうか」

「そうね。これから一緒に暮らすんだものね」

「そうそう、僕たち、世間的には兄妹のような関係になるんだよね」


そう言って先に悠紀人は家の中に入っていった。


―そういえば、男子と家の中でふたりきりってはじめてだったかしら―?


時子は咄嗟に高鳴る胸をそっと押さえながら、悠紀人のあとに続いた。


―すると突然、玄関のドアを閉めた悠紀人が後ろを振り向き時子の方へと顔を向けると時子を驚かすように言った。

「わっ」

「わっ」

驚いた時子も反射的に声を上げると後方に後ずさりした。


「ごめん、ごめん。驚いた?」

悠紀人は照れたように頭を掻いた。


「何ごとかと思ったわ」

時子は幾分、怒った風を装った。


「ちょっと言ってみたかっただけ。まあ、とにかくこれから居候の身なのでよろしくね。さて僕は予備校探し……とか本屋さんとか、情報収集に出かけて来ようかな」

「あ、予備校なら、私が通っている塾も大学入試向けの講座を開校してるはずです」

「君、高校受験に向けて今から塾に通っているの?」

「はい、母から言われて夏期講習に通ってます」

「そっか、そっか。偉いね」

「みんな結構、塾に通ってますね」

「まあ、塾も善し悪しだね、と僕は思うけど」

「とにかくこれから行ってみます?私が通っているY予備校」

「うーん、どうしようかな」

「あ、塾のことで私が出る幕ではないですよね。余計なお世話でした。凄いですよね。向こうの学校はすべて英語での授業が行われるんですよね」

「確かにそうだけど自分自身としてはまだまだ理解不足なことがあるんじゃないかと思うことがあるよ。まあ、卒業できたからよかったけどね」


そこまで話しながら時子は悠紀人にすっかり好感をもっていた。頼もしい兄ができたと内心有頂天になるほど悠紀人のスマートな対応ぶりに引き込まれていた。初対面でこんな風に打ち解けられる男子には今まであまり出会ったことがない。憧れていた田坂もどちらかというと幾分、不器用だと感じさせるくらい無口な面があったし、こんな風に打ち解けて話したことはなかった。悠紀人の人をリラックスさせるようなスマートさというのは父親似だろうか?それとも母親似だろうか?それにしてもイギリスの研究所に仕事で派遣されるほどの能力を持った母親とはどんなに素敵な女性なんだろうかと想像を巡らせた。そんな思いを巡らせる一方で時子は看護師として生き生きと仕事を続けてきた母の後ろ姿も思い返したりもしていた。


「ところで君はどこの高校を目指しているの?」

「ええっと、まだ自信がなくて……」

「まあ、まだ先の話だし、これから、頑張れよ。じゃあ、僕はひとりで出かけるよ。もしかすると帰りが遅くなるかもしれないけれど夕飯は家で食べるから君のお母さんにもよろしく伝えておいて」


そう言うと悠紀人は玄関のドアを開けると振り返りざまに時子に向かって手を振り、さっさと歩いて行った。悠紀人の後ろ姿を見送りながら、時子は心密かに感じていた華やいだ気分があっという間に消え去り、ひとり取り残されたような寂寥感に包まれながらもすぐに気を取り直すと玄関のドアの鍵を閉めて自分の部屋へと向かった。

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