6-6—過去と現在の交差

 珠樹は帰って来たふたりが門のところで立っているのを目にした一瞬、中三の頃の笙と自分の姿を垣間見るような戸惑いを感じていた。そしてまだ若いふたりが一緒に暮らすようになって間違った方向に走ってしまわないかどうかというような不安感をも同時に感じていたのだった。


 笙と珠樹の若かった頃の思い出は鮮やかな純粋さを放ちながら胸の奥に流れ出す透明感のある湧き水のように美しいままだが、歩む道が分かれてしまったふたりが今、こうして一緒に暮らすようになったのはふたりだけの大切な思い出が消えなかったことも大きいが、失踪してしまった圭によって引き寄せられた縁でもあったし、圭と珠樹が出会って結ばれなかったら、今、笙とこうしていることもなかっただろう。だから、圭が行方知れずのままどうしているのかわからないという事実は珠樹の心のどこかで重くのしかかる事実でもあった。


 それでも珠樹にとって天職ともいえる看護師の仕事に追われながら時子の成長を目の当たりにすることで流れるように日々は過ぎたのだが。そして、圭の失踪当初は酷く動揺もしたし、大きな不安と葛藤しながら精一杯の日々でもあった。


 当時のことを今、振り返ると神の御加護に導かれるように時子と母子の絆を築きながら日々を歩み今があることに心から感謝している。大変だった当時、笙や真由実に大きく支えられたことも感謝以外の何ものにも変えられない気持ちだ。そして、真由実が笙と離婚したことで生じた心の溝を埋めるように一緒に暮らすようになったことについて真由美に対するどこか申し訳ないような思いは珠樹の心の中では拭いきれない一方で、笙と一緒に暮らすようになって心の歯車が噛み合う関係の人と生活を共にできることがこんなに人生に潤いを与えてくれるという喜びを知り、珠樹の心は満たされていたのだ。


 しかし、その反面、行方知れずのままの圭の影はずっと心の奥深くに潜んでいた。時子が年頃になるに連れてその影は静かに忍び寄ってくるような気配があった。毎日の生活の狭間でも時子の圭に似た目許や鼻筋を見るにつけ圭のことを思い出したし、看護師としての仕事の合間にも圭によく似た人を見かけて、気になったりすることがあったのだった。時子が悠紀人と並んで立っている姿を見かけた時もそういった内心の思いが沸き立ち、珠樹は平静さを隠し切れずに動揺した。ふたりの様子はまるで仲睦まじい兄妹のように一見、見えたのだが、時子の幸せを思えばこそ自分の過去の長かった冬の時代に気持ちが苛まれたのだった。


「悠紀人さん、大きくなったわね。あのふたりが立っている姿を見たとき私達の若い頃を思い出しちゃったわ」

珠樹は心の中の不安を解消するように、その日、笙とふたりきりになったときにさり気ないふりを装いながら話しかけた。

「ああ、まあ、イギリスで生活してきたんだから、昔の自分のことを思うと偉いと思うよ」

「そう、私には考えられないわ。イギリスには友人と旅行に行ったことはあるけど、生活するってなると大変そうね」

「真由実が俺とちがってしっかりしているからね」

笙の様子は珠樹が感じた不安などは一切感じていないといった様子でどこか冷静だった。


「……それにしても悠紀人も懐かしかっただろうな。幼かった頃の時子ちゃん、可愛かったから」

「悠紀人さん、憶えていてくれたんですね。私達のこと……。あまりにも普通に接してくれるんで内心、助けられた感じがしたわ。優しいのね」

「あ、そうか。君は気にしていたんだね。そうだよね。俺も鈍感だな。今の生活にすっかり馴れてしまって昔のことなどすっかり忘れてしまっていたよ。悠紀人も可愛い妹ができて嬉しいくらいじゃないかな。もし、君が望むなら正式に籍を入れてもいいんだよ。兄貴が失踪してからもう十年以上の年月が経っているわけだし……。まあ、法律上の手続きがあるかもしれないけど」

「そうね。だけど私は今のままでいいわ。籍には全くこだわっていないのよ。圭さんのことについても私が待っているとはあの人は思っていないだろうけど、いつかまた私達の前に現れるってこともないとは限らないし。でもそんなことがあっても私は昔のように彼の元へ戻ることはないと思うけどね」

「だけど、兄貴が時子ちゃんの本当の父親であることは偽りのない事実なんだよな。もし仮に兄貴が現れたとして時子ちゃんが兄貴をどう受け止めるかは別としてが気になるよね。事情はともかく君たちのことは見捨てたも同然なんだから」

「……」

「ごめん。なんだか嫌なこと思い出させちゃったね」

「そんなことないわ。笙君と暮らすようになって今は幸せだから私はいいのよ。でも時子にも幸せになってもらいたくてときどきふっと不安になるの。あの子は私にとって本当に大きな心の支えなんだもの。今までも、これからも……」

「悠紀人は時子ちゃんのことは悠紀人なりに大事にしてくれると思うよ。子供の頃からイギリスでしっかりやってきたんだ、俺なんかよりきっとしっかりいろいろなこと考えてるよ」

「そうね。明日のこともあるし、もう、そろそろ寝ましょうか」


 窓辺に立っていた珠樹はそっと夜空を見上げた。静かな宵闇の中を風が渡る音が聞こえてくる。今のこの穏やかな生活の波が消えることなく未来へと続いていくことを珠樹は心の奥底から願っていた。


 悠紀人が訪れてからの夏休みは時子にとって不思議なくらい充実していた。こんなに充実していた夏休みははじめてだったかもしれない。悠紀人がイギリスに留学していたということで時子は英語に関して簡単なレッスンを悠紀人から受けることになった。といっても日常会話の中に英語を取り入れる程度のことで悠紀人の受験勉強の気分転換も兼ねてという名目だった。夏休みというと昔から仕事に向かう母の背中を見ながらいつの間にか過ぎてしまうといったようなどこかいつもひとりぼっちのイメージがあった。


 考えてみると知らず知らずに時子はひとりで過ごすことにはすっかり慣れてしまっていた。悠紀人の英語のレッスンはまるで学校での休み時間のように悠紀人の受験勉強の合間を縫って取り入れられた。時子は夏期講習での課題こともあったので悠紀人の明るい先生ぶりに馴染みながらもどこかで心の線は引いていた。それは悠紀人の受験勉強のことも心のどこかで意識していたせいもあったのだが。二学期がはじまると悠紀人は時子が夏期講習を受講していたY塾の大学受験対策の後期コースに通うようになり、家族皆が忙しい時間のサイクルの中に紛れていった。


 

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