後編
第5章 変転
5-1―ささやかな暮らし―
―十二年後―。
都内の小さなアパートの一室で珠樹は十二歳になった時子とふたりで暮らしていた―。
天気が良い日にベランダから眺める朝の景色は柔らかな光に弾け、珠樹と時子の心に小さな希望を灯すように一日のはじまりを告げる。ベランダから見渡してすぐの大通りの川の流れは延々と繰り返される人々の暮らしをそっと映し出しているようで、きらきらと輝いて見える―。外の景色を眺める度にその川沿いをどこまでも走り出していきたくなるような、そんな朝の心地よいひとときが時子は好きだった。延々と繰り返す日々にひっそりと築かれた母とふたり暮らしのささやかな部屋のあちこちからはふたりで過ごしてきた思い出のかけらが静かな時の陰影を投げかけてくる―。
なかでもリビングの白い壁の中央に掛けられたガラス張りの小さな額に閉じ込められた一枚の油絵は時子の胸の内で中心的位置を占めるように朝夕ごとに何かを語りかけてくるようだった。
―十字架に張り付けられたイエス=キリスト―。
繊細に描かれた絵の中のキリストの姿はうなだれて諦めの底に沈んでいるように見えて崇高な魂を感じる。木の十字架に釘で打ち付けられた手足からは一筋の血が流れ、その痛みを想像すればするほどキリストの姿はその痛みを耐えることのできる強さに輝いて目に映る。そして、キリストの表情は痛みさえも感じないのかと思われるほどに静かで厳かなのに、この心に染み込むような表情の底にはどんな思いが潜んでいるのだろうか……。
時子はそんなことを油絵を見つめながら、何度も何度も考えたことがあった。
中学入学を間近に控え、ほのかな期待に胸を膨らませていた時子に父親がいないという現実はいつからかあたりまえの日々で、学校でも特にいじめられることもなく、特に目立つこともなく、日々は穏やかに過ぎていた。
物心ついた頃から父は亡くなったと母の珠樹からは聞かされていた。時子の姓は父方の姓のままだったし、父がいないという現実は学校ではいくらか同情の的になる以外はそんなに不都合ということもなく、同じクラス内にも各々の理由で時子のように父、もしくは母がいない片親の生徒は数人いたし、誰もが表面的にはそのことを臆することも誇示することも―そして悲嘆することもなく学校生活を送っているように時子の目には映った。
時子の父親の写真はキリストの絵の下のアンティークな造りの棚の上に小奇麗に飾られていた。そのせいか、まるで絵と一体化しているような安定感が時子の心の底にいつからか築かれていた。写真の中の父は赤ん坊の時子を抱いて笑っていてあたたかい笑顔が印象的な人だった。幼心にその笑顔が誇らしく、時子の心の中で父は憧れの思い人のように欠かせない存在でもあった。
父は現実に存在しなくても時子の心の中で確かに存在していた。それは、まるで雲を掴むような存在でありながら空気のようにあたりまえの温かみがあり、時子の身体の中に父の血が流れているという誇りはごく自然に養われていた。
珠樹は看護師の仕事に追われる日々を過ごしていたが、時子との会話の時間をいつも大切にしていた。朝夕の食事の支度も珠樹のライフスタイルの中で単調に繰り返されているようでいて、時子は自分に対する母のささやかな気遣いに溢れていると感じることが多々あった。食事の時間はかけがえのない親子の会話のひとときだった。特にふたりきりでの食事の時、母はしきりに時子に話しかけてくる……。時には学校のことだったり、道端に咲いていた花のことだったり、食事の内容だったり、ニュースで流れていた悲しい事件のことだったり―。
珠樹と時子は親子というよりは仲の良い姉妹のように肩を寄り添わせて暮らしていた。だから、なぜか時子は、母の心の内の本当の思いに触れるのが怖いと思うことがよくあった。父が亡くなって、もう、十年近くの月日が流れているはずで、母は再婚を考えないのか……。そんなとりとめない思いに囚われてしまうこともあったからだ。
看護師として働く母の姿を物心ついた頃から病院の託児所で過ごしていた時子はときどきそっと垣間見ていた。看護師として白衣で働く母の様子は家で過ごしている時よりずっとはきはきしていて、どこか別人のように感じることもあった。それでも、時子を迎えに来てふたりきりになった帰り道にはすぐにいつもの母に戻るので、その都度、時子はほっとして嬉しくなるのだった。時子と珠樹の生活はキリストの絵と父の写真に静かに見守られるように、ふたりで支え合って生きてきた心の絆を慈しみながらそっとそっと静かな時を刻み続けてきた。
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