第39話   4つ目の国の名前は゛モレスネット゛

3ヵ国国境地点がある場所は「4ヵ国国境通り」という名前の道があることわかるように、どうやら昔はここにはドイツ、オランダ、ベルギーの他にもうひとつ国があったらしい。


非常に興味深く思い調べてみると、ここにはニュートラルモレスネットというとても小さな国-というよりは実は共同主権地域が1816年から1919年の間に存在していたのだという。


ここでのニュ-トラルとは中立地帯という意味で ドイツ語とオランダ語では゛中立モレスネット゛、フランス語では゛中立モレネ゛である。


中立地域モレスネットはアーヘンの南西7 kmに位置し、北はファーザーベルクまで、全体で3.4 km²の大きさで、人口は1815年に256人であった中立モレネの人口は、1858年には2,275人に、1914年には4,668人まで急速に増加したとのこと。これは鉱山で働く近隣諸国から多くの労働者が集まってきたからということだ。


しかし、もう少し調べると、そもそもこのモレスネットという地域は実はもう少し大きくてここには当時「古い山(ドイツ語でアルテンベルク(Altenberg)、フランス語でヴィエイユ・モンターニュ(Vieille Montagne)」と呼ばれる亜鉛の鉱山があったらしい。


ナポレオン戦争後のウィ-ン会議の後に、ネーデルラント王国とプロイセン王国がこの亜鉛鉱山をめぐり、両国が所有権について対立したため、1816年に締結されたアーヘン協定によってこの地域はまず3つに分割され、そのうちの2つの地域はそれぞれオランダとプロイセンに併合され、その中間にあって鉱山を擁する丘一帯は、改めて協定が結ばれるまで両国の共同統治領とすることで落ち着いたのだということだ。


ところがその数年後の1820年にはベルギ-がオランダから独立してしまったため、オランダが所有していた西側モレスネット地域はベルギー領となり、中立モレスネットの統治権もベルギーへと移るのだが、オランダがモレスネットの統治権を本当に譲るまでには結構時間がかかったそうだ。

それくらいこの鉱山は魅力的な収入源だったということなのだろう。


1885年亜鉛鉱山が廃鉱になったものの、第一次世界大戦中はドイツ帝国に占領され、また第一次世界大戦後の1919年6月28日のベルサイユ条約で、中立モレスネットは1920年1月10日に名前をケルミスに変更し、プロイセンモレスネットはノイモレスネットとなり、この名前は現在でも残っているものの、モレスネット一帯は現在では全てベルギー領となってしまった。


オランダ、ベルギー、ドイツと3ヵ国の干渉を受け、そして最終的にはベルギー領として落ち着いたモレスネットだが、1816年から1919年の間、この中立モレスネットは市評議会が設置され、大幅な自治権が認められていたけれど、それでも自らの通貨を発行したことはなく、フランス・フランを中心にこのほか、プロイセン、ベルギー、オランダの貨幣が流通していたらしく、更に興味深いのは、中立モレネ出身者は、無国籍状態であると考えられていたため、中立モレネに移住した人々も当初は兵役の義務は免除されていた。


後にベルギーは1854年に、プロイセンは1874年に、それぞれ中立モレスネットに移住した自国民の徴兵を開始するようになるが、そもそも無国籍状態というのもどういうことなのかと思うけれど、それでももともとの住民の子孫達は特別に兵役の義務から免れたらしい。


無国籍であれば仕方ないということか。


もうひとつ興味深いのが、この中立地域をエスペラントを公用語とする世界初のエスペラント国家にしてしまおうという動きがあったとのことだ。


鉱山病院の主任医師であり、ウィルヘルム・モリー博士(1838年 - 1919年)が中心に国名もアミケーヨ(友情の地という意味 Amikejo)にしようという提案もなされ、エスペラント語での国歌が提唱されエスペラント語を習得する住民まで出てくるほど支持され、1908年にドレスデンで開かれていた世界エスペラント大会では中立モレスネットは世界のエスペラント・コミュニティの首都であると宣言までしていたそうである。


しかしこの頃領土拡大を推進していたドイツ帝国の干渉、またその後の第一次世界大戦勃発でその運動は下火になり、終焉してしまう。


そもそも今でもここの地域の人達は、ドイツ語とフランス語を流暢に使いこなし、またこの地域のドイツ語はオランダ語風でもあるので、簡単にオランダ語も理解できるようであるから、語学に適応できる能力が高く、エスペラント語も容易に習得できたことだろうに、そう考えると少し残念な気がする。


またこのような運動を始めた理由は自分達のアイデンティティーを形にしたかったということがあるのかもしれない。

ベルギ-にもドイツにもオランダにも属していない、自分達の小さい中立モレスネットを1つの国家として本当に独立した形にしたかった気持ちがこのような運動に駆り立てたのだろうと考えると、当時自分達の国(ですらない地域)の行く末が彼らにとって、さぞや心配だったのでは、と思われる。

今ではベルギー内では一番東側でドイツ語とフランス語を話す地域として、特色を持ち確立され、時々これらの村を通れば、住民達はまさしくベルギー風の家と景色の中、すっかりベルギー人としての生活を楽しんでいるようだ。



そしてこの地域を調べると、実はその昔ここ一帯はリンブルグ公国に属していたようで、リンブルグ公国の歴史もこれまた興味深い。

次回はこの話の続きで、リンブルグ公国について書かせていただきたいと思う。







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