第28話 夜にチワワの散歩

 朝、目が覚めると僕の腕のなかに優香さんがいた。





ーーーーー昨晩。

 あんなに降り続いた雨はやんでいた。

 夕食が食べ終わり優香さんは愛犬チワワのリルの散歩に出掛けるという。

 僕と優香さんが出掛けている間には宿の主のおばあちゃんが世話をしてくれたらしい。

 昔ながらの民宿っぽいのにペットも泊まれる宿なんだ。


「散歩に僕も一緒に行っていいかな?」

 僕は単純に優香さんが心配なだけだ。まだ夜の九時だったが一人で散歩になんて行かせられない。行ってほしくない。

「本当? 一緒にリルの散歩してくれるの?」

「もちろん」

 僕と優香さんは宿の浴衣から着替えて上着を着込んで少し肌寒い鎌倉の海辺に二人と一匹で出掛けた。


 月明かり。

 ほのかな月光に優香さんの顔は映えて優香さんの白く透き通る肌やすうっと通った鼻筋、少し切れ長の瞳に見つめられると僕の胸は早鐘を打つように高鳴る。

「聞いても良い?」

「んっ? 何でも良いよ。聞いて」

 優香さんはリルと繋がるリードに引っ張られながら僕に尋ねた。

 僕は覚悟を決めていた。

 たぶん聞かれると思った。

 捨てられた婚約者のことを聞かれる。僕は琴美のことも子供のことも慶太のことも話すつもりだった。


「ねえ。私のことどう思っているのかな?」

 えっ? 僕は予想と違う質問にびっくりしていた。

 これは恋人ごっこの続きか?

「大好きだよ」

 僕は芝居がかってはいたが本心から言ってしまった。

「智史くん」

 優香さんは潤んだ瞳を僕に向けて泣きそうな笑顔を僕に見せた。

 優香さんは僕に抱きついてそのまま「キスして」としっかり僕のを見ながらポツリとささやいた。

 リルはびっくりしたんじゃないのかな? ちょこんと砂浜にお座りをしてチワワのリルは僕たちを見つめている。


 僕は優香さんをしっかり抱き寄せてゆっくりと口づけた。一度だけにするつもりだった。ここまで抑えが効かないキスなんて琴美ともあまりなかった。

 冷静でなんていられなかった。

 掻きむしられるほどに狂おしく胸がざわついて優香さんを抱きたい衝動にかられた。

 このまま砂浜に優香さんを押し倒して抱いてしまいたい。 


 だが。僕にはそんなことは出来なかった。

 心の情熱とは真逆にそうっと静かに僕は優香さんを離した。


「智史くん?」

「ごめん。これ以上はキス出来ないや」

 我慢できなくなるから。

「どうして?」

 優香さんの哀しげな表情かおつきに僕の胸が痛んだ。

「だってキスだけですまなくなるから。我慢できなくなりそうで」

「私はいいよ」

「えっ? あっ。だめだよ。そんな投げやりじゃ駄目だ。自分を大事にして」

 大事にしてほしい。

 こんな素敵な人を悲しませたくない。

 僕はそれからは黙って優香さんの手を握り宿に戻った。



 恋結びの宿の二階のはしはしの部屋に僕と優香さんはお互い戻る。

「じゃあ」

「うん」


 僕は部屋に入ると敷かれた布団にばたりと倒れ込んだ。

 なんなんだよ。

 僕のこの気持ち。

 灯りも点けずにしばらく幾度も繰り返す消えることのない波の音を聞いていた。


 僕はまどろみながら優香さんのことを考えていた。


 急に僕の鼻を生温かいものがベロリと舐め上げた。

「おい。リルじゃないか」

 僕はちゃんと閉めてなかったらしいドアの隙間から入ってきた犬のリルを布団の上で仰向けになって天井に向けて両手で抱き上げた。


「ご主人が心配するぞ」


「ごめんなさい。リル来てる?」

 優香さんの声がドアの向こうでした。

「いるよ」

「入ってもいいかな?」

 ドキッとした。

 だが冷静でいようと優香さんの姿を見てもなるべく余計なことは考えないようにと僕は自分に言い聞かせていた。

「どうぞ」

 静かに優香さんは僕の部屋に入る。

 リルは座っていた僕のあぐらをかいた太ももの上から、優香さんの元へ走って行った。

「ありがとう」

 リルを抱き上げて優香さんは部屋から出ようとした。


「一緒に寝ますか?」

 なっなんてことを僕は口走ってしまったんだ。言ってしまって後悔した。

 だって優香さんの背中が寂しげだったんだ。なんて言いわけだ。

「いいの?」

 えっ?

 優香さんは座った僕に抱きついてきた。しばらくは僕たちはそのままでいた。


 二人でゴロンと布団に転がって抱きしめあっていつの間にか眠っていた。


 僕は同じ布団で寝ながらも優香さんになにもしなかった。



 信じられないが抱きしめ合いながら一緒に布団にくるまっているだけで、安心して僕は眠ってしまっていた。


 疲れすぎていたのかもしれない。

 僕と優香さんとで飲んだシャンパンが思いのほかきいていたのかも。


 いいや一番は優香さんを抱きしめて伝わる人のぬくもりに安心したからだと。



 僕は朝まだ寝ている腕のなかの優香さんを見ながら思っていた。


 優香さんの規則的な寝息に癒やされながら、僕は恋と愛と同情心の狭間はざまにいる気がしていた。

 


 

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