第20話 危機 4
「藍、逃げるんだ!」
せめてできる事をと思って叫ぶ優斗だが、元々が狭い室内だ。さらに藍は完全に萎縮してしまっていて、逃なきゃいけないと頭では分かっているのだろうが、体がついていかなかった。
震える足で数歩下がっただけで背中が壁についてしまい、後はどうすればわからず動けずにいる。そしてついに、壮介は藍へと掴みかかった。
「――――っ!」
乱暴に腕を引っ張られ、声を出すこともできなかった。せめてもの抵抗にと掴まれた腕を振り払おうとしているが、そんなものは何の役にも立たない。すぐにもう一方の腕も捕まれ、そのまま押し掛かるようにして壁に押さえつけられる。
「やめて……」
やっとの思いで絞り出した言葉は涙声になっていて、気がつけば視界が滲んでいた。
間近に迫った壮介の顔は醜く歪み、藍には聞くのも耐えないほどのおぞましい言葉を捲し立てている。
いくらこう言う事に疎い藍でも、この状況から次に何が起こるかくらいは想像ついてしまった。最悪の結末が何度も頭を過り、まるで心が蝕まれていくような得体の知れない恐怖と気持ち悪さが溢れてくる。
「ユウくん!ユウくん!」
いつの間にか、本人も気づかぬうちに優斗の名を呼んでいた。それが助けを求めるものなのか、それともこんな時とっさに叫ぶのは一番大切な人の名前なのか、それは藍にも分からない。
ただ一つ言えるのは、それが壮介に対して何の抑止力にもならないことだ。
「あ?誰だそれ?お前、男いんのかよ。まあ、すぐに忘れさせてやるけどな」
面白くなさそうに吐き捨てると、いよいよ藍の服へと手を伸ばす。
その時、再び優斗が動いた。
「藍!」
何度目になるか分からない叫び声をあげながら、彼の体は藍の中へと吸い込まれていく。
藍に取り憑き、その体の主導権を得たのだ。
これは苦肉の策だった。例え優斗が取り憑いたところで、藍の体で壮介を振り払えるとは思えない。だがそれでも、恐怖でなにもできずいる藍よりは自分が動かした方がマシかもしれないと思ってやっただけだ。
だから、これからの事は全て優斗にも予想外だった。
いくら自分が取り憑いたところで、力ずくで掴みかかってくる壮介の手を振りほどけるなんて、思ってもみなかった。ましてや、ただの一撃殴っただけで吹っ飛ぶ壮介を見て、一番驚いたのは優斗だったかもしれない。
優斗が藍に取り憑いたのは、これが初めてじゃない。主に藍がねだって、一緒に食をしたりベースを弾いて貰ったりなど、割と頻繁にやっている事だった。
そんな中、何度も取り憑いているうちに気づいた事がある。優斗が取り憑くと、藍の身体能力が上がっているのだ。と言っても体感したのは、固くて開かなかった瓶の蓋が簡単に開いたり、軽く走った時いつもより速い気がすると言った細かいものだったが。
『多分、体にかかっているリミッターのようなものが外れたか、それか霊的な力が後押ししてるんじゃないかと思う』
事情を聞いた啓太はそう言っていた。怪談では、幽霊にとりつかれた人が凄い力で襲って来たと言う類い話があるが、それもこういった身体能力の向上が原因じゃないかとも考察していた。
ただ、その後に彼はこう忠告した。
『本来使えないような力を出すんだから、きっと体にも負担がかかると思う。だから、極力そこまでの力は使わない方がいい』
とはいえ藍達も、そんな事をする気はなかった。いくら力がついてもそれを使う機会なんてそうそうなく、そんな事もあると一応心の中に留めておく程度のものだった。
だから全力を出した時どれくらいの力が出せるかなんて、試してみた事もない。
男一人を宙に浮かせるほど殴り飛ばせるなんて、全く思っていなかった。
「――――っ!」
地面に転がった壮介は殴られた頬を押さえながら、信じられない顔で藍を見る。まさかこんな反撃をされるとは思わなかったのだろう。
だがそれでもまだ、彼の戦意は衰えていなかった。むしろ殴られた事でますます頭に血が上ったようだ。
「てめえ!」
荒々しい声や血走った目が、既に彼が正気でないと伝えている。
だが今の藍には、いや、藍の体を借りた優斗には戦うだけの力があった。なおも向かってくる壮介に対して身を構えると、奴より先に更なる一撃を見舞った。
「がっ!」
言葉にもならない声をあげよろめく壮介。それを見た優斗は、さらに一撃、もう一度と攻撃を加えていく。
取り憑く事による力の向上は、藍や優斗達の予想をはるかに上回っていた。女の子である藍の体にも関わらず、完全に壮介を圧倒している。
それがよほど屈辱だったのだろう。さらに怒りをまず壮介だったが、怒っているのは優斗も同じだ。いや、壮介の怒りなど、優斗のそれと比べるとちっぽけなものでしかなかった。
優斗の脳裏に、涙を流す藍の姿がよぎる。悲鳴や震える声が聞こえてくる。壮介がこれからしようとしていた事を思い、藍を傷つけた事を許せず、これまでに感じた事のない感情が止めどなく溢れていった。
「藍に──藍に何をしようとした!」
「あっ⁉何を……ぐえっ⁉」
優斗の放った拳がまたも壮介に届き、彼は壁へと叩きつけられる。
藍に取り憑いている今こんなセリフを言うとおかしな事になるのだが、もう壮介にそれを気にする余裕はなかった。
この時点で、もはや勝敗は決しているようなものだった。最初こそ暴れていた壮介だったが、二度三度と殴られていくうちにその怒りはだんだんと削がれていき、代わりに焦りと恐怖が沸い出てきた。
「ま、待て!俺が悪かった。二度とこんな事しないから――――」
とうとう勝てないと諦めたのだろう。両手を前に出し、もうやめてくれと全身で示す。だがそこに、これまでで最も重い一撃加わる。
「――――っ!」
声もなく倒れた壮介は、そのまま立ち上がろうともせず、力なく横たわったままだった。
(助かったの?)
壮介に戦う意志も力も無いのは、藍の目から見ても明らかだった。今までずっと怖くてたまらなかったが、ここに来てようやく少しだけ安心感が生まれた。
(ユウくん――)
今だ高鳴る心臓を落ち着けようと、彼の名を呼ぶ。だが優斗はそれに答えなかった。
藍の体を操ったまま倒れている壮介に近づき、無防備なその体に向かって更なる追撃を加えた。
「うっ――――」
またも何発か殴られ、悲鳴とも呻きとも分からない声を出す壮介。だが優斗の攻撃は収まることなく、さらにいくつかの拳が叩き込まれた。
「がっ――ごふっ――」
一撃が加えられる度に、鈍い音と微かな声が響く。
(も、もういいんじゃないの?)
驚きながら優斗に言う。藍とて決して壮介を許そうとした訳じゃない。だが既にまともに立つこともできない様子を見て、殴った手が、ジンジンと熱くなっていくのを感じて、さすがにもうやりすぎじゃないかと思った。
なのにも優斗は、まるで藍の声が聞こえていないみたいに、殴るのを一向にやめようとはしなかった。
(待って!もういいから、十分だから!)
いくら何でも、これ以上続けさせるわけにはいかない。必死で引き留める中、さらに予想外の事が起きた。
突然倉庫の外からガチャガチャと音が響いたかと思うと、今まで閉ざされていた扉が勢いよく開いたのだ。
そして、倉庫内に新たな声がこだまする。
「藤崎、無事か!」
声の主、それは血相を変えて飛び込んできた啓太だった。
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