ACT52 もしかして、イケナイこと?


「じゃあ、シロちゃん。次は終業式だね」


 母が仕事に出かけるのを見送ってから、一緒に洗濯物を干して、掃除をして、昼食を一緒に作って、食べた後の片づけをして、真夏日の快晴ですぐに乾いた洗濯物を取り入れて……とやっているうちに、あっという間に時間は過ぎた。

 朱実が言うには、朱莉さんから、午後三時までには帰ってきて欲しいと連絡を受けているので。

 最後の洗濯物を畳んだ頃には、既にいい時間になっていた。

 そんなわけで。

 朱実を見送るため、マンションの真白の自宅を出て、エレベーターで下に降りる傍ら、


「……朱実、あと一度だけ」

「ふふ、もう、しょうがないシロちゃんだなぁ」


 誰もいない空間で、二人はもう一度抱き合って、唇を重ねる。

 優しく触れるだけのキス。それでいて、長い繋がり。心地よい感触の、幸せの時間。

 ……ふと、真白の中で、もっと深く繋がったらどうなるんだろう、という思考も生まれたけど。


「ん……ふぅ」


 そう思った頃には、エレベーターは一階に到着し、自然と唇は離れていた。ちょっと切ない。


「じゃあ、今度こそ、またね」

「うん、ばいばい」


 笑顔でぶんぶんと手を振って、キャリーカートを転がしながら歩いていく朱実の背中に、真白もいつまでも手を降り続けた。

 見えなくなるまで、何度も、何度も。


「…………はぁ」


 やがて息を吐いて、真白はエレベータで階を上がって、自宅に戻る。


「ただいま」


 と、言っても、リビングには誰もいない。

 母も、もちろん朱実も。

 家の中はとても静かで、外で鳴いている蝉の声だけが、妙に大きく聞こえる気がする。


「どうしよっかなぁ……」


 呟く。

 家事はあらかたやり尽くした。

 勉強は、昨日期末テストが終わったばかりなので、今はちょっと向き合いたくない。

 晩ご飯の支度は、なんとなくする気になれない。

 昨日から今まで、いつも以上に朱実が傍にいただけに、今からいつも以上に朱実が傍にいないことが、ちょっと……いや、かなり真白のテンションを奪っている。

 母が傍にいれば、少しは気も紛れただろうけど、今日の母は夜遅くまで帰ってこないとあらかじめ聴かされている。


 つまり、今から夜遅くまでは、ずっと一人だ。


 ひとりは、さびしい。


「朱実……」


 リビングのソファに座って、それからコテンと横になりながら、真白は彼女の名を呟く。

 ついさっきまで一緒にいたし、キスもしたし、笑顔も眼に焼き付けたのに。

 もう、足りなくなってきてる。


「想像、か」


 朝食の席で朱実が言っていた通りに、ふと、真白は彼女のことを思う。

 一緒にいたその時、甘美なその一瞬を思い浮かべても、やはり本物にはかなわないけど。

 一緒にいられないからこそ、強く、強く。

 眼を閉じて。

 呼吸を深くして。

 朱実の手の温もり。

 朱実の感触。

 朱実の笑顔。

 朱実の肌の色。

 その他、彼女に関するすべてを、出来うる限り。


「ん……」


 一つ、鼓動が高鳴った気がする。

 それだけ、彼女を強く思えたのだろうか。 

 この調子で、もっと、モット、Motto。


「――――」


 熱くなってきた。

 夏の季節の暑さではなく、身体の芯からの熱さ。

 ちょっとボーッとするけど、全身は驚くほどに鋭敏で、くすぐったい。

 それに。

 なんだろう。

 お腹の、下あたりが、キュッとなるような。

 熱くて。

 切なくて。

 それでいて、甘くなりそうな。

 真白にとって未知の感覚。


「ふ……ぁ……はぁ……」


 吐息が漏れる。

 呼吸が浅くなる。

 彼女のことを考える度に、その感覚は強くなっていく。

 あたしは、どうしてしまったんだろう。

 とても気になる。

 気になるから。

 彼女のことを思い浮かべることを続けて。

 熱い、切ない、甘い感覚に導かれるままに。

 一番それが強いと思われる、お腹の下あたりに。

 己の右手を、伸ばそうとしたところで――



 べべべん・べん・べん・べべべべべーん♪



「!?」


 三味線主体の、勇気あふれるメロディがリビングに鳴り響いたのに、真白はボーッとなる意識が急浮上する。

 ガバッとソファから跳ね起き、続いてキビキビと周囲を見回すと、ガラステーブルに置いてあったスマホから着メロが鳴っているのがわかった。


 というか、あたし、今一体何を……?


 ドッドッドッと、鼓動が早い。

 とても驚いたというのもあったけど、同時に、何かとてもイケナイことをしようとしかけていた気がして、とっても罪悪感。

 ……朱実の言っていたとおり、過度の想像は危険のようね。

 それこそ、深い沼に入っていくかのような感覚だったのに、真白は一つ深呼吸して、今度からは想像の線引きをしっかりしようと自戒しつつ。


「ええと、とりあえず、出なきゃ」


 今も鳴り響いている着信メロディに、真白は慌ててガラステーブルの上のスマホに手を伸ばす。

 誰だろう。もしかして朱実かな……いやいや、さっきの今で、それはないか、という心地で、画面を見ると。


「あっちゃん先輩?」


 ――戌井藍沙。

 そこには、朱実とはまた別に、真白にとって親しい者の名があった。


  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 お家に帰ってきてから、お母さんの実家に帰るための準備に取りかかってるんだけど。


「…………はぁ」


 わたしは、早くもシロちゃん分が足りなくなってきていた。

 さっきまで一緒にいたというのに、もう、寂しいという気持ちが芽生え始めるこの体たらく。

 シロちゃんに知られたら、流石に笑われるかも知れない。

 ……でも、なぁ。


「朱実、手が止まっていますのよ」

「ああ、ごめん、お母さん」

「しっかりなさい。もうすぐ、真耶ちゃんも来ますのよ」

「ん……そうだね」


 危ない危ない。

 流石にもう子供じゃないんだし、せめて、年下の子の前では、シャンとしないと。

 自分の中のモヤモヤをどうにか封じ込めて、帰省用の衣類の整理を行っていたところ、


 キンコーン


 家のインターホンが鳴った。噂をすれば、というやつか。

 お母さんに言われるよりも早く、わたしは居間を出て玄関に向かいつつ……一つ深呼吸して、腑抜けた表情を見せないように心を締めてから、扉を開けると、


「こんにちは、朱実さん」


 小さなサイズのリュックを背負った、わたしよりも背の低い女の子が居た。

 黒の長髪、ちょっと深い色の大きな漆黒の瞳。可愛らしい顔立ちに似合わず、古風で気品のある佇まいは、お母さんの影響を受けたんだとか。


 ――彼女の名は、藤宮ふじみや真耶まやちゃん。


 わたしより四つ下の従姉妹で、この町の小学校に通っている六年生だ。わたし達仁科家が引っ越してきてからはご近所さんなので、休日なんかに会う機会が多いし、仲も良好である。

 今回、ご両親の仕事の都合で、真耶ちゃんだけ、わたし達の帰省に同行することになってるんだけど、


「いらっしゃい、真耶ちゃん。待ってたよ」

「あ、はい。……ええと、朱実さん?」


 真耶ちゃん、何故か、遠慮がちにこちらを見つめていた。

 ……一体、どうしたんだろう?


「……なんだか、へにょへにょしてますの?」

「え、へにょへにょ?」

「ええと、具体的に例えると、旅行に出かけるご主人の家の留守番をしつつも、寂しさのあまり腑抜けてしまったにゃんこみたいな、そんな感じですの」

「!」


 腑抜けた心が全然締まってなかった!?

 ……こんな年下の子にまで見抜かれてしまうなんて、シロちゃんロス、どうにも抑えきれてないみたい。

 今からこんなので、大丈夫か、わたし……。


「あ、はは、ごめんね。真耶ちゃんはあまり気にしなくていいから」

「はあ……って、朱実さん」

「? どしたの?」

「何故、手に下着を持ってますの?」

「え……ああっ!?」


 真耶ちゃんの言う通り、わたしの左手にはフリルのついた白地のマイショーツ。

 衣類整理の途中だったものを、そのまま持ってきていたようだった。


「……朱実さん?」

「だ、大丈夫。大丈夫だからっ」


 とは言うものの。

 この注意力散漫、本当に大丈夫か、わたし……!

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