ACT28.5 あなたを見つめていていいですかね?


「うひゃーっ、これまた降ってるなっ」


 午後六時、所属するバスケ部の練習が今日は早めの終了となり、部室棟で着替え終えた黄崎桐子は、日が長くなったというのに黒々とした空から降ってくる大粒の豪雨に、唸りを漏らした。

 昼間からずっと降っているというのに、この雨は、未だに雨足が弱まる気配を見せていない。

 なんでも、この豪雨は深夜にまで及ぶらしい。


「でも、風が止んでるだけ、まだマシかっ」


 自分が長身なだけに、風まで吹かれていたらとても帰り難かっただろうけど、その辺は不幸中の幸いか。

 うん、前向きに行こうっ。

 そんな気持ちで、桐子は、愛用の黄色の傘を広げ、校庭を横切って早足で正門に向かおうとしたところ、


「……ん?」


 明かりの灯る昇降口にて、困ったように立ち尽くしている小柄な人影を見つけた。

 遠目ではあるが、よくよく見なくても、知っている顔だ。


「おなつっ」

「え、桐やんさん?」


 方向転換して、昇降口に駆け寄って桐子が声をかけると、そこに居た少女――桐子の友達である緑谷奈津は、驚いたようで。

 度の厚い眼鏡の奥の緑の瞳を、まん丸にしていた。


「おなつ、こんなところでどうしたんだっ? 傘がないのかっ?」

「あ、はい。傘立てに置いてあったんですが、どうも、他のクラスの方に持って行かれたらしく」

「そうなのかっ? ちょっと許せないなっ。今度とっちめてやるっ」

「いえ、違う名前の、自分が持ってたものと同じ種類の傘がそこにありましたので。間違っただけで、盗まれたというわけではないのでしょう」

「む、そうかー。それならしょうがないなっ。今度返してもらおうっ」

「そうします。問題はこれからどうするか、なのですが……」

「……よし、おなつ。ちょっと待ってろっ」


 そう言って、桐子は昇降口の屋内に入り、傘を広げたまま置いておきつつ、自分のスポーツバッグの中をごそごそと漁る。

 奈津が『?』と首を傾げていたのだが、それにも構わず、


「あったあった。ほい、おなつっ」

「え……折りたたみ傘?」


 取り出して渡したのは、紺と青紫のチェック柄の折りたたみ傘であった。

 桐子としては小さいのだが、小柄な奈津には十分な大きさである。


「おなつに貸してあげるよっ」

「い、いいんですか?」

「もちろんっ。困っているおなつを放っておけるはずがないからなっ」

「あ……ありがとうございます。非常に助かりますっ」


 心からホッとしたように、奈津が笑ってくれたのに、桐子は温かな気持ちになる。

 大切な友達を助けられるのは、やはり嬉しい。


「それじゃ、一緒に帰ろっか。なんなら、おなつの家まで送るぞっ」

「い、いえいえ、傘を貸していただいた上に、そこまでしていただくのはっ。それに自分、電車通学ですしっ」

「じゃあ、駅までだなっ」

「ですので、そこまでしていただかなくても――」

「よし、行くぞ、おなつっ」

「……あー、こうなってはもう、止まりませんね。わかりました。駅までご一緒してください」


 苦笑ながら、奈津は折りたたみ傘を広げて、付いてきてくれた。

 普段よりも少し歩幅を小さくして奈津と歩調を合わせつつ、桐子は、相変わらず雨足の強い通学路を歩く。

 そういえば。

 ――おなつと一緒に帰るの、初めてだなっ。

 桐子、高校入学から放課後はずっと部活だっただけに、その事実に気づいてちょっと驚いた。

 部活が休みの日もあるにはあったが、そうだとしても、奈津と共に帰るということは今まで無かったので、そう思うと、桐子は新鮮な気分にはなる。

 こういう時、何を話したらいいのかなっ?


「それにしても桐やんさん、ちゃんと大きな傘使ってるのに、よく折りたたみ傘なんて持ってましたね」


 と、先に、奈津の方が話しかけてきた。

 先手をとられた。まあいいかっ。


「おうっ、もしもの時のために、折りたたみ傘はいつもバッグに入れてあるんだっ」

「へえ、用心深いんですねぇ。自分も、見習いたいくらいです」

「ちなみに、ほら。中にもう二本」

「二本っ!?」

「水玉のやつが折りたたみ傘のスペアで、黒いやつがスペアのス――」

「そのネタを使うのは、ちょっと恐れ多いような気がするのですがっ!?」

「え? おなつ、何を言ってるんだ?」

「いえ、その……こちらの話です」


 ぶつぶつと呟く奈津がよく解らないのだが、まあ、桐子の推し量れる範囲の話題ではなさそうだ。

 それはそれで、触れるのはやめておいた方がいいのだろう。


「なんであれ、ボク、おなつのピンチに駆けつけることが出来てよかったよっ」

「っ……ま、まあ、自分の不注意が招いた事態ではあるんですがね。こんな遅くの時間まで残っていなかったら、もしかすると回避できていたかも知れませんし」

「でもさ。――おなつ、漫画の原稿の方、頑張ってるんだろっ?」

「!」


 桐子は知っている。

 奈津はここ最近、押し掛けて弟子入りした先輩の女生徒の下で、本格的な漫画の原稿作成の指導を受けていることを。

 その先輩は三年生で受験も控えているというのに、きちんと指導を行っているあたり、とても良い先輩だし……その人もまた、漫画を描くことに対して深い情熱を持っているのだろう。


「おなつは、その先輩の情熱に、きちんと応えてるんだろ?」

「そこまで言われるのも赤面ものなのですが……ええ、はい。今ちょっと佳境でして、家でしっかり仕上げたかったんです。だから、桐やんさんには感謝してます。原稿を濡らしてしまっては、どうにもなりませんからね」

「うんっ。だから、本当に通りがかれてよかったっ」

「……本当に、あなたという方は――」


 奈津は言葉の通りに赤面しており、折りたたみ傘の奥で他にも何かを呟いていたようだが、生憎、その内容までは雨で聞こえなかった。

 もう少し近づいた方がいいのかな?

 桐子はそんな思いを抱いたのだが、それよりも早く、奈津がこちらに向き直って、


「それにしても……よく、そこまで、察することが出来ましたね。桐やんさん、鋭すぎてとてもビックリですよ」

「おうっ。バスケでは駆け引きをする場面も多いし、相手の心理を読む力も必要だから、その応用かなっ?」

「……そう言われると、なんだか、戦々恐々になりますね」

「? どういうことだ?」

「いえ、何も。その読みの力で、自分の事情を読まれるとは。桐やんさん、今もある意味大物ですが、近い将来かなりの大器になると思います」

「んー、でも、おなつだからって言うのもあるかも知れないなっ」

「えっ」



「ボク、おなつが思っている以上に、おなつのこと見ているからっ」



「!!!!!」


 そう言うと、奈津、またも眼鏡の奥の瞳を見開いて、さらには赤面だった顔をさらに赤くして、口をパクパクさせていた。

 一体、どうしたというのだろう?


「桐やんさん、本当に……」

「?」


 いろいろ言葉にならないらしい。

 ただ、歩む足は止まっていないので、気はしっかり持っているようだ。

 ここは、奈津の気が済むまでしばらく話しかけない方がいいだろうか? それとも、何かしら声をかけた方がいいか?


「はぁ……まあ、でも、そうですね」


 と、なんとか回復したらしい、奈津が一つ大きく息を吐いて。

 度の厚い眼鏡を少しだけずらした、彼女の持つ大きな緑の瞳で、こちらを見上げてきながら、



「自分も……あなたのことを、ずっと、見てますよ」



「――――」


 そう言われると。

 先日、彼女と夫婦ごっこ遊びをしたときと同じく、こう、グッときた。

 なんだろう、この胸の中に広がる、じんわりとした温かさは。


「…………」

「…………」


 それを最後に、二人とも、言葉なく雨の中を歩くのみとなる。

 だが、決して悪い雰囲気ではなく、むしろ心地良いことが、桐子には解る。

 もう少し、この時を続けていたかったが……それから一分ほどで、目的の駅に着いてしまった。


「そ、それじゃ、桐やんさん。自分はここで。傘、明日にはお返ししますので……」

「お、おう。気をつけてなっ」


 別れ際に交わされる、ちょっとギクシャクした会話。

 ……このまま一日を終えるのは、桐子としてはすっきりしないので。


「おなつっ」

「? なんです、桐やんさん?」

「時間が合えば、また一緒に帰ろうなっ!」

「――――」


 それを受けて、奈津は、またも赤面しながら驚いたようだが。

 ものの数秒で何とか復帰して、こちらにむかって、穏やかに微笑んでくれた。


「はい、喜んで」


 そう言って、奈津はもう一度手を振って、それから背を向けて改札を抜けていく。

 その後ろ姿の足取りは軽く、どうやら、快く自分の気持ちを受け取ってくれたようだ。

 桐子、すっきりであると共に。

 また少し、胸中が温かくなった気がした。


  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 ……………不幸中の幸い、とかいうレベルじゃありませんでしたよね、これ。

 電車の中で悶え苦しむ自分は、他の方から見れば奇異そのものなのでしょうけど。

 それすら、どうでもよくなってしまうくらいに。

 今は、本当に、その、たまりません。

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