Plume smile. 3

「三年前にこの店に置いて行かれたんだ。こんな雨の日に」


 うつむきながら亜矢がつぶやくのを、恵と美香は聞いていた。

 

「中学二年になった頃だった。あの日の前まで何不自由なく平和っていう日々があたい達の周りを取り巻いていた。けど、あいつはそれを壊したんだ。いきなりこんな所にあたいと姉貴を残して行方を消した。あの後、色々探したが見つからなくて。まあ、刑事の妻が行方不明になったっていうのは笑えるかもな」


 カウンターに戻ってきた聖美と知見の耳にも入ってきた。

〝信じられない〟という顔をして鈴を見た。


「仕事しましょう」


 鈴の言葉に、聖美と知見は互いを一瞥し、軽く頷いた。

 オーダーを二人に渡した美香は、亜矢に目を向ける。


「亜矢、ちょっと来て」


 亜矢の手を掴んだ美香は、奥の部屋へと連れていく。

 横目で見送った鈴は、こんなときこそ神名がいてほしかったと下唇をかんだ。


「すみません、鈴さん。ラムのレモンカップってどうやって作るんですか?」


 恵が小声で聞いてきた。


「えっとね、茶葉はラプサンスーチョンを使ってストレートティーを作り、冷やすの」


「それはやりました。神名さんが残してくれたノートを見ましたから」


 恵はノートを鈴に見せ、ページをめくりだす。

 覗き込む鈴は、いっしょに『レモンカップ』のページを探した。


「よく書いてまとめてある。神名らしいね。このとおりに作ればいいのよ」


「でも……焦がしちゃって」


 半分泣きそうな声をあげた。

 そんな恵の頭を優しく撫でた鈴は、鍋を取り出した。


「私がやるから、恵は見てて」


 レモンを一個冷蔵庫から取り出し、上下を切り落とすと鍋に入れ、水とグラニュー糖を入れて煮込みだした。

 その間、レモンのジュースを別の鍋に入れて火にかける。


「煮込み終わったらこれを冷やして、今煮込んでいるレモンジュースを冷やしたものと紅茶、ラム酒を入れて冷蔵庫に冷やす。後はグラスにクラッシュアイスとを入れ、炭酸水とレモン、ライム、エディブルフラワーなどを飾って完成」


 説明しながらテキパキとこなしていく。


「冷やすのに時間がかかりそう」


 恵は心配そうに鈴の顔を見上げた。


「時間がかかるからメニューに載せてなかったはずなのに。これを注文したのって」

「先程のお客様です」

「あー、母さんのオーダーね」


 思い出したように鈴は息を吐く。

 何を考えてこれを頼んだのだろう、とつぶやいた。



                   *


 

 奥の部屋に連れてこられた亜矢は、美香から目を反らした。

 だが美香は顔を近づける。


「どうして黙ってたの?」

「何がだよ」

「おばさんの事よ。……私、知らなかったわよ」

「話してないからな」

「どうしてよ! 何で話してくれなかったのよ」


 美香は、悲痛な顔をして亜矢を睨んだ。


「私……知らなかった。亜矢の友達なのに。私は亜矢に自分のこと、気持ちをいつも話し、話てきたのに、亜矢は……」


 美香の涙を見ないように亜矢は顔を背ける。


「そんな亜矢を……いつも私は、笑ってたの? 私は……ング、喧嘩をふっかけてたの? ……一緒、に、笑ってる時も……亜矢の心は違って、た、ングッ、の? ……な、なにも知らなかった私は、ただの……馬鹿じゃ……ないの……」


 美香は亜矢にすがりつく。

 そんな彼女を、亜矢は突き放して背を向けた。


「……悪い、とは思ってた。辛いのはあたいだけじゃない。美香だって辛い時があっただろ。だから黙ってたんだ」

「け、けど、……話してほしかった。……私は、亜矢の、友達なのよ。……昨日、今日、知り合ったんン、じゃない。十年もつき合ってきたのに……私って、信用無いのね」


 美香はうなだれ、その場にしゃがみ込んでしまった。

 その姿に亜矢は拳を握りしめ、下唇を噛む。


「……わからなくなったよ。あたいのしてた事って、母さんと同じだ。美香を、あたいは捨ててたんだ。美香の気持ちもわからずに、いや、知ってて酷いことをしてたんだ。……ごめん」


 亜矢もその場にしゃがみ、美香を両手で包み込んだ。



                   *



 鈴は冷蔵庫から先ほど作って入れておいたものを取り出し、クラッシュアイスを入れたグラスに注いでいく。


「恵、後は飾って完成よ。クレームブリュレをトレーの上に載せといて」

「はい。これ、鈴さんが持って行くんですか?」

「いいえ、恵。貴女が持っていくのよ」

「えっ?」


 円らな瞳をまん丸大きく見開いて恵は瞬きをした。


「あの、どうして私が……」

「母さんとはいえ、あの人はこの店に来たお客様。それに私が行ったら、冷静になれないような気がするから」


 鈴は、恵が持っているトレーの上にラムのレモンカップのグラスを三つ乗せた。

 物悲しい鈴を前に、恵は口を噤む。


「わかりました。行って来ます」


 深呼吸してから、恵はカウンターを出ていった。



                  *



 窓を打ち付ける雨は、見る者の気分を滅入らせる。

 二階に上がった恵は、唯と蘭が座るテーブルに歩み寄り、オーダーを置いた。


「お待たせ致しました。ラムのレモンカップとクレームブリュレです」

「ありがとう」


 蘭はサングラスを外し、テーブルに置いた。

 恵は横目で同席している唯を見た。

 怖い顔をしている。


「どうして、マザリングを捨てたのよ」


 唯はゆっくりと話を切りだした。

 蘭はラムのレモンカップを一口飲んだ。


「おいしいわね。貴女が作ってくれたの?」

「はい。鈴さんと一緒に」

「恵、戻りなさい。蘭、いいから答えて」

「恵さんっていうの。そこに座っていなさい。誰かに聞いていて欲しいから」


 帰りそびれた恵は、どうすればいいのか答え欲しさに唯を見た。

 空いている席に目配せをしているのに気づき、同席した。


「マザリングの暗い面を知ってるでしょ。全てを奪い尽くす子供の欲望に仕えながら何の報いもない厳しさ、自立的に振る舞うようになった時に感じる寂しさと裏切られた感じと怒り、そんな寂しさに耐えられず脅迫的妊娠に走ったり……。思春期の子供を手放すことの困難さ、成長した子供達に憎まれ役になるのも私達母親。一番嫌なのが、子育てを女性の『本能』とみてマザリングに関心を持たず、何もしない男達が許せないのよ」


 きっぱりした蘭の語気に圧迫を感じ、恵は身がすくんだ。

 

「だから捨てたの?」

「人間は本能の壊れた動物なのよ。私はあの子達の母親であり、女性であり同じ人間なの。毎日飲んだくれて帰ってくるあの人や、あの子達を出迎えてると、『このままじゃダメになる』って思えたのよ。子供から見たら親なんて、自分の欲を満たす為の奴隷でしかないのよ」


 言いたいことを言い切ったのか、蘭はグラスに手を伸ばして飲んでいく。

 恵は自分の目の前にあるグラスに口をつけていいのか迷っていた。


「親から見た子供はただの人形か」

「男なんて勝手なものよ。いくら世の中が変わっても男は昔のままなのよ」

「そうかもね。私にはよく分からないけど」

「舞が亡くなった後、まさか貴女が直人さんと結婚するなんてね」

「そうするしかお互い生きていけなかっただけよ。……私達姉妹は両親を亡くして頼れる人がいなかった。直人もそうだった。陽一もいたし、私達にはそれしかなかったのよ。もうその事への愚痴は止めて、皮肉もね。もう言いたいことなさそうだから用件に入りましょうか。三年ぶりに何しに来たの?」


 ため息をこぼしてから、ラムのレモンカップを飲んだ唯は、再び蘭を見た。


「要件は二つ。一つはここの取材。これでも雑誌記者なのよ。この店を取り上げようってね」

「もう一つは?」

「あの子達を迎えに来たの。うちの人を説得するのにずいぶん時間がかかっちゃってね。女は仕事なんかせず、家で帰りを待ってるものだ! なんて古い事言う堅物だから、給料が自分より上って事知った時のあの人の顔ったらなかったわ」

「まさか離婚?」

「冗談止めて、和解よ」


 二人の話を黙って聞いていた恵は、大人って勝手だと思った。

 と同時に、自分の母親と重ねていることに気がついた。

 

 

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