Plume smile. 1

 母と妹と三人で店に入ったあの日。

 あの時も雨が降っていた。

 店に来る前から何が起きるのかは知っていた。

 母は私に何もかも打ち明けていたからだ。

 そして、私は母を許した。

 妹は知ってか知らずか、妙に気を引こうと両親に迷惑をかけるようなことばかりしていた気がする。


 SCAPEGOAT───犠牲の野羊


 親のことなんか知っちゃいないという顔をして自分の役割を悟られまいとする。

 しかし、母は本当に何も気が付かなかった。

 母は姉妹に笑顔を残し、去っていった。

 笑顔を残して……。


 子供だった頃、母の笑顔は永遠のものだと思った。

 泣いて帰るといつも暖かく抱き締めてくれる、我が儘も聞いてくれる。

 どんな願いも叶えてくれる。

 その優しい顔でいつだって見守っていてくれる。

 母は私だけのものだった。

 私にだけの笑顔だった。

 しかし母親も同じ人間であり自分と同じ女と理解した時、私は母が人として生きる事を強く願った。

 母は自分の道を歩きだし、その役目が自分に回ってくると苦痛と孤独と空虚が襲ってきた。

 ……重圧だった。

 初めて母の辛さを知り、自分が情けなかった。

 いつか私は結婚して母になるだろう。

 その時、母として生きるのか、仕事で生きるのか、女として生きるのか、どう生きていけばいいのか、答えは出そうになかった。

 



                    *




 駅前近くにある小さなケーキショップ『PEACH BROWNIE』。女子中高生には有名な店で、相変わらず予約も多く忙しい。今日はあいにくの雨で客足は良くなかった。


「ねえ亜矢、今日泊まりに行っていい? 弟が合宿に行っちゃってて、ゲームの相手がいないのよ。コンピューター相手じゃつまんないし、ネット対戦は嫌いだから……お願い。昔みたいに泊まりに行っていいでしょ?」


 美香は湯を沸かしながら、亜矢に手を合わせる。

 彼女の頭の中では、あれこれ楽しいことばかり思い浮かんで、いつものように「OK」してくれると思っていたから返事の心配などしていなかった。


「ねぇ、亜矢ったら……」


 何も言わない亜矢の手元を見る。

 注いでいるグラスからアイスティーが溢れそうになっていた。


「亜矢、こぼれる!」

「ん? わっ! っとっとっと。あぶねぇ、あぶねぇ。もうちょっと早く言ってくれよ、美香」


 亜矢は笑いながらグラスを傾けて流しに少し捨てた。


「なに言ってるの。さっきから話しかけてたのに聞いてなかったのは亜矢でしょ? なに考えてたの、真剣な顔して」


 美香の問いに答えようともせず亜矢は、カウンターの向こうにいる聖美にオーダーを渡した。


「仕事しようぜ。唯さん、怖いから」

「……わかってる」


 美香は息を吐いた。

 怖い顔して遠くを見つめてはため息をつく亜矢を横でみながら、雨の日になるとおかしくなったのはいつからなのか、思い出そうと口を尖らせる。

 あれは……たしか中学二年生の頃からだ。

 なにがあったのかと、記憶を巡らせてみたものの、思い当たらない。

 これは直に、本人に問いただすしかない。

 そのためにも、だ。


「ねえ、泊まりに行っていい?」

「ん? 泊まりにくるのか。悪いけど……ダメだ。ちょっと部屋が散らかってて、人の住める場所じゃなくなってるんだ。……ごめん、あたいが美香の家に行ってやるよ」


 取って付けたような言い訳だった。

 前回もそうだった、と美香は思い出す。

 考えてみると、この三年、招いてくれたことがない。

 家に来られて困ることでもあるのだろうか?

 それとも拒まれてる?

 なぜ?

 聴いたところで亜矢は教えてはくれない。


「もういい」

「美香?」


 ムスッとした顔で美香は話を打ち切った。

 すまななそうな顔を見せる亜矢だが、その顔を美香は見飽きていた。

 違う顔をみたい美香は、何げなく恵に目を向ける。

 彼女は運んできた食器をぼんやり洗いはじめた。


「恵も元気ないのね。……どうしたの?」

「別に」

「……そう」


 神名が店を辞めて以降、恵は元気がなかった。

 彼女の面倒をみていたのが神名だったことを、美香も知っている。

 今度は自分が、先輩として気にかけなくてはと思う半面、ただでさえ亜矢に手を焼いているのに、恵の面倒までみれそうになかった。

 そもそも、亜矢はなにを隠しているのだろう。

 考ええば考えるほど、美香も、亜矢と恵同様、まるで置物のような冷たい表情になっていく。

 食器を持ってカウンターに戻ってきた聖美は、三人をみて息を吐く。


 ……この人達、お客を笑顔で迎える気がないよね。


 呆れる聖美が注意をしようとしたときだ。

 CANONのEOSを肩に掛けた、サングラスの女性が店に入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 聖美は入口へ向かい、軽くお辞儀をする。


「どうも。かわいい子ね」

「あ、ありがとうございます」


 照れる聖美。

 見ず知らずの人に可愛いなんて言われたことなんかなかったから嬉しかった。


「久しぶりね、二人共」


 ポットを沸かす青白い火を見ていた亜矢は、女性の声を聞いて顔を向けた。


「あっ……」


 美香は慌てて頭を下げる。


「お久しぶりです、おばさん」

「美香さん、元気そうね。大きくなっちゃって」


 美香は亜矢へと視線を向けたとき、思わず声を喉の奥へと引っ込めた。

 実の母親を見る目つきではなかった。


「今頃になって何しに来たんだ」

「唯に用があってね。悪いけど取材できたのよ。勝手に写真を撮らせてもらうわ」


 女性客は、肩から掛けてあるカメラを手にした。


「アポなしの人に取材はお断りだ。今更やって来て、仕事しか目に入らないのかあんたは!」

「お客に対して失礼な言い方ね」

「なにっ」

「亜矢、やめなさい」


 奥の部屋から出てきた鈴が亜矢の前に立つ。

 恵は鈴の顔を見る。

 口を堅くつむり、静かに微笑んでいる。

 亜矢とは対照的だった。


「美香、唯さんを呼んできてくれない?」

「は、はい」


 鈴の言葉に美香は慌てて返事した。

 奥の部屋へと行く前に、亜矢の耳元に囁く。


「何であんな言い方するの?」

「早く呼びに行けよ」

「わかってる。恵、唯さんの所に行って来るから、あとお願い」


 美香は不機嫌な顔をして奥の部屋へ入っていった。

 横目で確かめて、鈴が対応する。


「店の者に話を聞いてきますので、取り合えずお待ち下さい。失礼ですが予約はしてますか?」

「もちろん」

「お名前は?」

「楊 蘭で予約しましたよ」


 鈴は予約者リストをカウンターから取り出すと、本日の予約者リストを見た。


「確かに。それでは二階へ案内します」


 鈴はカウンターを出ると、階段の方へと歩きはじめた。


「ありがとう。ラムのレモンカップ、それとクレームブリュレを注文しとくわね」


 女性客は、恵にそう言うと、ニコッと笑った。

 鈴はその人を二階へと顔色変えずに連れていく。

 恵は亜矢の顔を何げなく見上げた。

 淋しくも哀しい瞳には憎しみが満ちていた。

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