128 港の一角にて


「な……っ!? 馬鹿な……っ!?」


 突然、消えた《蟲》の気配に、港の人気のない一角に薄揺はくようとともに潜んでいた冥骸めいがいは驚愕の声を上げた。


「ありえん……っ! わたしの禁呪が破られるだと……っ!?」


 砂郭さかくで左腕と引き換えにしてまで《龍》に仕込んだ特製の禁呪。


 禁呪は、龍翔も知らぬ間に時間をかけてゆっくりと《龍》を侵し、ついに正気を失わせるほどまで成長していたはずだ。


 皇族が自らが召喚した《龍》によってほふられる。


 これほど、龍華国の皇族にとって屈辱的な死はないはず、だったというのに。


「ありえん……っ! 《龍》に染み渡っていたわたしの禁呪が一瞬にして破られただと……っ⁉」


 ありえない。ありえるはずがないと感情が叫ぶ。


 現に、龍翔が喚び出した《龍》は、狂乱の叫びを上げ、龍翔に襲いかかろうとしたではないか。


 ついに悲願の第一歩が果たされるのだと、心が歓喜に湧き上がったというのに。


 いったい、何が起こったのか。目の前の出来事だというのに、理解が及ばない。

 だが、たったひとつ心当たりがあるとするならば。


「……解呪の特性を持つ娘のせいか……っ!」


 冥骸は地の底から響くような声で呻く。


 《龍》が龍翔に牙を突き立てる寸前、割って入った小柄な人影。


 直後に《霊亀》が高い水の壁を張り、《幻視蟲》が召喚されたため、水の壁の向こうで何があったのかは見えなかった。だが。


 冥骸の禁呪と、あれほど飛んでいた螘刑ぎぎょうと冥骸の《刀翅蟲》を一瞬で消すなど、龍翔のそばに仕えているという解呪の特性を持つ娘以外に、原因が考えられない。


「わたしの禁呪を上回るほどの力を持っているというのか……っ!」


 明珠とかいう娘の力をあなどっていた。


 確かに、以前にも《刀翅蟲》を無力化されたことはある。


 だが、あの時は蚕遼淵がそばにいた。冥骸は現場にいなかったため、てっきり遼淵の《雷電蟲》によって《刀翅蟲》を消されたものだと思っていたのだが……。


 まさか、冥骸の禁呪を解き、暴れ回る《龍》を正気に戻すとは。


「何者だ、あの娘は……っ!?」


 もともと解呪の特性は希少だが、そこまで凄まじい解呪の力など、聞いたことがない。


 冥骸は実際にやりあったことはないが、昔、蚕家には優れた解呪の力を持つ女術師がいると聞いたことがある。だがそれは、二十近く昔のことだ。女人という点は同じだが、年齢がまったく違う。


薄揺はくよう! あの娘は何者だっ!? 元は蚕家の侍女だったのだろう!?」


 冥骸のすぐ後ろで蒼白な顔で立つ青年に、無駄と知りつつ問いかける。

 案の定、薄揺はぶるぶると震えながら必死な様子でかぶりを振った。


「わ、わたしは何も……っ! 侍女といっても新入りで、すぐに離邸付きになったものですから……っ」


「役立たずが……っ!」

 八つ当たりだと理解しつつも吐き捨てる。


「くそ……っ!」


 噛みしめた奥歯がぎりりと異音を立てる。


 こんなことがあっていいはずがない。冥骸が渾身の力を持って練り上げた禁呪がたやすく破られるなど。


 だが、目の前で起きたことは夢でも幻でもなく、現実だ。


 《霊亀》の水の壁は消え、いまや白銀に輝く《龍》が寄り添って立つ藍圭と初華を祝福するように悠然と宙を舞っている。


 長い身をくねらせ、白銀の鱗に陽光を照り返しながら青い空を背に舞う《龍》は、冥骸の徒労を嘲笑あざわらっているかのようだ。


 明珠を抱き上げた龍翔が確かな足取りで舞台から去ろうとしている後ろ姿を、冥骸は射貫くように睨みつける。


 本来ならば、いまごろ龍翔の長身は藍圭とともにあけにまみれて舞台に倒れ、暴れ回る《龍》が『花降り婚』を滅茶苦茶にしていたはずだというのに――。


「……行くぞ」


 一方的に告げ、冥骸はきびすを返す。


 藍圭をほふるために舞台に飛び乗ったはずの螘刑の姿もいつの間にか消えている。暗殺は失敗したのだ。


 禁呪も解かれてしまったいま、冥骸がここにいる意味はすでにない。


 狼狽うろたえた声を上げてあわててついてくる薄揺を無視し、冥骸は歩を進める。


 頭の中で渦巻くのは、どうすれば解呪の力を凌駕りょうがし龍翔を手にかけてやれるかということだけだ。


「……決してこのままで済ませたりなどするものか……っ!」


 本懐を遂げるためには、もう一度、禁呪を練り上げる必要がある。


 次こそ、《龍》を圧倒するほどの禁呪を。

 そのために――。


「くふっ、くくく……っ」


 冥骸は地をうように低いわらい声を洩らす。


 このまま、むざむざと引き下がる気はない。必ずや、目にもの見せてくれる。


「いまだけだ……。束の間の安寧にひたるがいい……。新たな禁呪を練り上げたあかつきには――」


 晴れ渡る晴天の下。そこだけ闇がこごったかのような黒衣を纏い、冥骸は来るべき時を思い描いで、愉悦に歪んだ笑みをこぼした。


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