120 こうしてお前にふれていれば、疲れも禁呪も融けてゆく心地がする その3


「……すまん。お前の優しさにつけこんで困らせてしまったな。頼みを聞こうとしてくれたお前の気持ちだけで十分だ。気に病む必要はないゆえ、お前の寝台へ戻――」


「だめですっ!」


 自分でもわけのわからぬ衝動に突き動かされて、守り袋を握りしめ、龍翔の胸へと飛び込む。


「明珠っ!?」


 明珠が抱きついてくるとは予想だにしていなかったのだろう。一瞬、のけぞりかけたものの、たくましい胸板がしっかりと明珠を抱きとめる。


「私なんかじゃ、龍翔様の深遠なお考えはまったくわかりませんけれど……っ! でも、龍翔様がおたわむれでおっしゃったのではないことはわかります! だからどうか……っ! このままおそばにいさせてくださいっ!」


 自分の行動の大胆さに顔から火が出そうだ。


 だが、明珠に気を遣うあまり龍翔がつらい思いをするなんて、そんな事態、自分で自分が許せない。


「お願いですから、どうか……っ!」


 守り袋を握っていないほうの手で龍翔の衣を握りしめ、祈るように額を胸に押しつける。


「だめ、ですか……?」


 泣き出しそうに潤み、震える声で問うと、不意に、息が詰まるほど強く抱きしめられた。


「だめなわけがないだろう」


 声と同時に、ぽふん、と寝台に横倒しにされる。


「お前が許してくれるなら、わたしが否と言うはずがない」


「り、龍翔様……っ!?」


 横倒しになっても、龍翔の腕は緩むどころか、ますます強く明珠を抱きしめてくる。


 このまま窒息するのではないかと狼狽うろたえた声を上げると、ようやく龍翔の腕が緩んだ。かと思うと。


 ちゅ、と額にくちづけられる。


「っ!?」


「お前が腕の中にいてくれれば、どんな不可能なことであろうとも、成し遂げられる気がする」


 耳に心地よい声が、真摯しんしな響きを宿して告げる。


 何か答えなくてはと思うのに、口を開けば、ぱくぱくと跳ねる心臓が飛び出してしまいそうで言葉が出てこない。


 掛布を肩まで引き上げた龍翔がふたたび明珠を抱き寄せる。薄手の衣越しに、引き締まった龍翔の体躯たいくが嫌でも感じられて、鼓動が速まって仕方がない。


 あたたかな体温とかぐわしい香の残り香に、おぼれるような心地がする。


「明珠」


 耳元で囁かれた甘やかな声に、明珠の身体まで蜜と化してとろりと融けそうだ。


 恥ずかしくて逃げ出したい。

 けれども同時に、龍翔の力になりたい気持ちを少しでも伝えたくて、守り袋を握っていないほうの手で龍翔の衣をきゅっと握ると、龍翔がふ、と口元を緩ませた。


「たとえ主への忠心だとしても、愛らしいお前にこれほど想ってもらえるわたしは果報者だな」


 嬉しげに弾んだ声は、龍翔が喜んでくれているのだと素直に感じられて、明珠まで嬉しくなる。


「私で龍翔様のお役に立てるのでしたら……。これほど嬉しいことはありません」


 心がくすぐったくなるような喜びとともに呟くと、龍翔が小さく息を呑んだ。と、何の前触れもなしにくちづけられる。


「っ!?」


 激情を無理やり抑えつけるような、深いくちづけ。


 いったい何が起こったのか、とっさに理解できない。


 驚きにみはった視界に、射貫くような光を宿した黒曜石の瞳が映り、怖くなってぎゅっと固く目を閉じる。


 息ができなくなるのではないかと不安になったところで、名残惜しそうに龍翔の唇がゆっくりと離れた。


「すまん……。お前の愛らしさにどうしても抑えがかず……」


 困り果てたように吐息した龍翔が、あやすように明珠の背を撫でる。


「怖がらせてすまなかった。頼むから怯えてくれるな。これ以上のことは、決してせぬゆえ……」


 強張りをほどくかのようなあたたかな手のひらに、思っていた以上に身体に力が入っていたのだと初めて気づく。


「は、はい……」


 おずおずとまぶたを開けると、予想以上に近くに甘やかな笑みを浮かべる秀麗な面輪があった。


 今でも爆発しそうな心臓が、さらにぱくんと跳ねる。


 これ以上、というのがどんなことなのかはわからないが、龍翔がしないと言っているのなら、明珠はそれを信じるだけだ。


「は、はい……。龍翔様が無体なことなどなさらないのは、存じておりますから……っ」


「……お前の信頼ほどわたしを縛る強いかせはないな……」


「龍翔様?」


 低い呟きがよく聞こえず問い返すと、答えの代わりに明珠を抱き寄せる腕に力がこもった。


「いや……。今宵の奇跡を大切にせねばと思っただけだ」


 包み込むように明珠を抱き寄せる腕に、あらがうことなく身をゆだねる。


「お前のおかげで、明日の『花降り婚』を乗り越えられる……」


 まぶたを閉じ、ほぅ、と安堵に満ちた吐息を洩らした龍翔の身体から、ゆるゆると強張りがほどけてゆく。


 呼吸が深くなり、形良い唇からこぼれた吐息が明珠の頬を撫でた。


 こんなに早く寝入るなんて、よほど疲労が溜まっていたに違いない。だというのに、明珠達に心配をかけまいと隠していた龍翔の気遣いに、きゅぅっと胸が締めつけられる思いがする。


「龍翔、様……」


 自分でもよくわからぬ感情が胸の奥からあふれ出す。無意識に名を呼ばうと、「んぅ……?」と龍翔がぼんやりとした声を上げた。


 しまったと口をつむぐが遅い。


 ぎゅっ、と龍翔の腕に力がこもる。反射的に飛び出しそうになった悲鳴を、明珠は唇を引き結んでこらえた。


 せっかく寝入った龍翔の邪魔だけは絶対にしたくない。


 包み込むようなあたたかな腕の中で、ひたすらじっとおとなしくしていると、いつの間にか、龍翔の呼気がふたたび深く穏やかになっているのに気がついた。


 もぞりと身動ぎして視線を上げると、秀麗な面輪がすぐに近くにあった。まぶたを閉じ、健やかな寝息をこぼすさまはぐっすり眠れているようで、心の底からほっとする。


 まさか、龍翔にこんなお願いをされるなんて、まったく全然、想像もしていなかった。


 それだけ、禁呪が強まっているということだろうかと思うと、不安でいてもたってもいられない気持ちになる。


 守り袋を握りしめる手に力をこめ、恥ずかしいのを我慢して龍翔に身を寄せる。少しでもふれている面積が広いほうが、禁呪の影響を減らせるかもしれない。


 夜着ではなく、ふだんの衣のせいだろう。焚き染められた香の薫りにおぼれそうな心地になる。


 だが、恥ずかしさと同時に感じるのは、あたたかく頼もしい腕に守られているという得も言われぬ安心感だ。


 昔、弟の順雪も母を亡くして不安にさいなまれていた頃、毎夜のように明珠とくっついて眠っていたが、こんなに安心するのは人肌のあたたかさゆえに違いない。


 明日の朝までに少しでも龍翔が回復しますようにと祈りながら、明珠も目を閉じ、ひたひたと忍び寄る眠気に身をゆだねた。


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