120 こうしてお前にふれていれば、疲れも禁呪も融けてゆく心地がする その1
「すまん、明順。張宇もずいぶん待たせてしまったのではないか?」
扉が開く音と同時に、衝立の陰にいる明珠の耳に龍翔の声が届いた。次いで、龍翔に応じる張宇の穏やかな声が聞こえる。
「いえ。お気になさらないでください。龍翔様こそ、ご公務お疲れ様でございました」
張宇の声に、「明順は?」と問う龍翔の気遣わしげな声が重なる。
「明順はすぐに休めるよう、すでに夜着に着替えておりますので、衝立の向こうにおります。龍翔様もすぐに着替えられますか?」
「ああ……」
吐息混じりに頷いた龍翔の声に、いぶかしげな張宇の声が重なる。
「龍翔様? やはり、お加減がお悪いのでは……?」
遠慮がちな張宇の問いかけに返されたのは、龍翔にしては珍しい、疲れたような深い溜息だ。
「……やはり、お前と季白の目はごまかせんか……。先ほど、季白にも同じことを問われた。確かに、体調がよいわけではないが――」
「龍翔様!」
龍翔の言葉を聞いた途端、矢も盾もたまらず明珠は衝立の陰から飛び出す。
「め、明順っ!?」
「明珠っ!?」
張宇があわてたように身体ごと視線を反らせ、龍翔が目を
「やっぱりお身体の調子が悪いんですねっ!?」
龍翔の前へ駆け寄った明珠は、胸元に
「わ、私の解呪がうまくできていないためですかっ!? 私がいつまでも《気》のやりとりをうまくできないから……っ!」
話すうちに声が震え、じわりと涙がにじんでくる。
と、なだめるようにぎゅっと龍翔に抱き寄せられた。
「落ち着け、明珠。急にどうしたのだ?」
「だ、だって……っ」
龍翔の香の匂いと体温に、一瞬で顔が熱を持つ。が、龍翔を見上げ、必死に言葉を紡ぐ。
「龍翔様がここ数日、ずっとおつらそうなので心配でたまらなくて……っ! なのに、龍翔様は大丈夫だとおっしゃいますし……。初華姫様や季白さん達に不安を与えないためだっていうのはわかっています! それでも……っ!」
ただただ龍翔が心配で、明珠ができることならば、どんな些細なことでも力になりたいと言いたいだけなのに、うまく言葉にならなくて自分が情けなくなる。
「す、すみませんっ! 龍翔様を責める気持ちなんてまったくないんですっ! ただ……っ」
「大丈夫だ。わかっておる」
背中に回された龍翔の腕に力がこもる。
「わたしが黙っていたせいで、余計にお前達に心配をかけてしまったのだな。すまぬ」
「り、龍翔様が謝られる必要なんて……っ!」
かぶりを振りたくても、ぎゅっと抱きしめられていてろくに動かせない。
「張宇」
明珠を抱き寄せたまま、龍翔が忠臣を呼ばう。
「すまんが、明珠が落ち着くまで席を外してくれ。明日は『花降り婚』だ。着替えくらい、ひとりでできるゆえ、お前もゆっくり休むといい」
「かしこまりました。お心遣いありがとうございます」
明珠と龍翔から視線を逸らしたまま、応じた張宇が「その……」と戸惑いがちに言を継ぐ。
「明珠は龍翔様の体調不良は自分のせいではないかと、ひどく心配しておりまして……。安理にも相談したようです。ですから、その……」
「なるほど、この夜着は安理の仕業か」
龍翔が得心した声を出す。
確かに、明珠がいま着ているのは、安理が用意してくれた夜着だ。晟藍国風だという襟元がゆったりした夜着は、薄手の柔らかな綿で、とても着心地がいい。
女物の夜着なんて、どこから手に入れてきたのだろうと思ったが、安理が言うには、初華の侍女頭である
『着飾らせたかっわい~明珠チャンに二回も耐えられた龍翔サマだからね~♪ お疲れで帰ってらっしゃるだろうし、今回は趣向を変えてみよっかな〜って♪』
と謎の言葉を呟きながら渡してくれた安理は、「せっかくだから、これもつけてごらんよ~♪」と花の薫りのする香油までくれたばかりか、着替えたあと明珠の髪を丁寧に
気を遣って明珠のほうを見ないようにしながら、張宇が一礼する。
「では、俺は隣室で先に休ませていただきます」
「ああ。明日の朝は早い。ゆっくり休め。……明日は、長い一日になりそうだからな」
張宇に振り返り、わずかに声を低めた龍翔に、張宇も、
「では、お言葉に甘えさせていただきます。ご安心ください。決して慮外者の好きになどさせません」
と、決意をにじませた声で力強く応じる。
「ああ、頼んだ」
主の声に恭しく一礼した張宇が内扉を通って隣室へ移動する。
ぱたりと扉が閉まってから。
「すまぬ。己のことに精いっぱいで、お前を不安にさせてしまったな」
よしよしとあやすように頭を撫でながら龍翔に詫びられ、明珠はあわててかぶりを振った。
「と、とんでもありませんっ! 私が勝手に不安になっていただけで……っ! あ、あの……っ」
秀麗な面輪をじっ、と見上げて問いかける。
「龍翔様のお加減はどんな感じでいらっしゃるんですか……? その、禁呪の様子は……?」
問うた瞬間、ほんのわずかに龍翔の眉が寄る。隠そうとした動揺を隠しきれなかったように。
「龍翔さ――」
「お前を不安にさせてはならんな」
問い詰めるより早く、龍翔が吐息混じりの呟きをこぼす。
「確かに、このところよいとは言えぬ。おそらく、禁呪使いが晟都へ来たせいだろうが……。だが」
明珠の身体に回された龍翔の腕に力がこもる。
「こうしてお前にふれていれば、疲れも禁呪も融けてゆく心地がする」
腕を緩めた龍翔に「龍玉を」と促され、夜着の上から首にかけた守り袋を握りしめて、まぶたを閉じる。
大きな手のひらが頬を包み、そっと上を向かされた明珠の唇を、あたたかなものがふさぐ。
慈しみに満ちた、優しいくちづけ。
明珠の息が苦しくならないうちに離れた唇が、もう一度下りてくる。
「ん……」
頬にふれていた手のひらが優しく肌をすべり、長い指先が
ぱくぱくと鼓動が高鳴り、身体中に
ゆっくりと龍翔の面輪が離れる。まぶたを開けておずおずと見上げると、明珠を見下ろす黒曜石の瞳とぶつかった。
「ああ、やはりお前がそばにいてくれれば、禁呪など何ほどのものではないと思える」
「わ、私でも、少しでも龍翔様のお役に立てていますか……?」
思わず不安を吐露すると、包み込むような柔らかな笑みが秀麗な面輪に浮かんだ。
「もちろんだ。わたしがこうして『龍翔』としていられるのは、お前のおかげに他ならぬ」
離さないと言いたげに龍翔がふたたび明珠を抱き寄せる。
「……その……」
「どうなさったんですか?」
珍しく、龍翔が歯切れ悪い声を出す。どうしたのだろうと顔を見上げようとしたが、ぎゅっと抱きしめられていて叶わない。
逡巡するような沈黙がしばし落ち。
「……お前さえ、許してくれるなら……。今宵だけでよい。このまま、そばにいてくれるか……?」
「は、はいっ!」
いつもの龍翔とは別人のような不安に満ちた声。
自信なげに揺れる声音を聞いた途端、考えるより早く即答する。
と、龍翔が目を見開いた。
「軽々しく即答するのではない!」
「す、すみませんっ!」
あまりの剣幕にびくりと肩を震わせて詫びると、龍翔が身体中の息を振り絞るように吐息した。
「……いや。先に変なことを問うたのはわたしだ。すまぬ。お前が詫びる必要はない」
「い、いえ、その……」
もぞりと
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