118 安理の報告 その5


「ん? それとも明珠チャンはオレの言葉じゃ信じられナイ?」


「そんなことっ!」


 はじかれたように顔を上げると、思った以上の至近距離に安理の整った面輪があった。同時に、安理に抱き寄せられていたことを思い出す。


 龍翔と同じ力強い腕。けれどもかすかに揺蕩たゆたう汗の匂いは明らかに龍翔の香の薫りとは違っていて。


 違和感を覚えた途端、ぴきりと身体が硬直してしまう。


「ごめんごめん。びっくりさせちゃったね♪」

 にぱっと笑った安理がぱっと腕をほどく。


「い、いえっ! 私こそすみませんっ!」


 身を起こして安理から離れ、懐から手巾を取り出して涙をぬぐおうとすると、それより早く安理の手が伸びてきた。


「いや~っ、あんまり明珠チャンがいじらしいから、つい……。ってやべっ、龍翔サマにバレたら、問答無用で叩っ斬られちゃう!?」


「あ、あの……っ!?」


 安理が自分の懐から取り出した手巾で、優しく明珠の頬をぬぐってくれる。大きな手のひらに頬を包まれ、子どもみたいに拭いてもらって、恥ずかしくて仕方がない。


「だ、大丈夫ですっ! 自分で拭けますから……っ!」


 あわあわと言い募っている間に、安理の手が涙をぬぐってしまう。


「これでよし、っと♪ 明珠チャンのかっわい~顔に涙の跡なんて残ってたら、龍翔サマが「何があった!?」と心配しちゃうだろーからね~♪」


「す、すみません……っ! いつもご心配ばかりおかけしてしまって……っ」


 情けなくて、止まったはずの涙が、またじわりとあふれそうになる。


「んも~っ、今日の明珠チャンはどうしちゃったのさ~! ほら、可愛いコは笑ってる顔が一番だよ~?」


 むにむにと安理がまるで餅でもこねるように明珠の頬を引っ張ったり押したりする。


「それともナニ? 季白サンにキツイことでも言われて𠮟られちゃった?」


「い、いえっ、そんなことは……っ! というか、私なんて、か、可愛いわけが……っ!」


 季白に叱られるのはいつものことだ。その程度でへこんでいられない。それに、明珠が足手まといなのは確かなのだから。


 というか、最近の季白は『花降り婚』の準備が大詰めで朝から晩まで忙しくしていて、ろくに顔も合わせられていない状態だ。


 だが、季白の名前に、今まで何度も言われ続けてきた注意が明珠の脳裏に甦る。


 禁呪使いが現れたことにより、もし、本当に龍翔にかけられた禁呪が強まっているのなら、少しでも弱めなくては。


 現状では、それができるのは明珠だけだ。


「あ、あのっ、安理さん!」


「うん?」


 決意を込めて真っ直ぐに安理を見上げると、手巾を懐にしまった安理が首をかしげた。


 どきどきと跳ねる心臓を押さえるように守り袋を握りしめ、すぅっと大きく息を吸い込み。


「あのっ、その……っ! ど、どうやったらもっと上手に《気》を渡せられるのか、教えていただけませんかっ!?」


 がばりっ! と深く頭を下げて頼み込むと、安理が動きを止めた。

 そのまま、無言の時が過ぎ。


「安理、さん……?」


 おずおずと顔を上げると、安理が珍しく瞬きも忘れたように目を見開いていた。


「そ、その……。やっぱり、だめでしょうか……? す、すみませんっ、こんな急に……っ!」


「いや、それはいーんだけど……。なんでオレ?」


 あわてて詫びると、夢現ゆめうつつを漂っているようなぼんやりした声で安理が問う。こくこくと明珠は頷いた。


「だって……。安理さん、前に乾晶からの帰り道におっしゃってくださいましたよね? 私が龍翔様とうまく《気》のやりとりができなくて悩んでいたら、手取り足取り教えてくださるって……。あの時はその、龍翔様がいらしたので、結局、教えていただけませんでしたけれど……」


 あの時の、『短く気をやりとりする方法』を思い出すだけで、心臓がばくばくと高鳴り、顔だけでなく全身が熱くなってしまう。


 告げた途端、安理がかえるが潰れたような声を出した。


「うぇっ!? あの、明珠チャン? まさか、あの時の冗談を本気にしてるっ!?」


「冗談……? あっ! 術に関することなので、周康さんに聞いたほうがいいってことですかっ!?」


「それだけはやめたげてっ! 周康サンが龍翔サマに問答無用で斬られちゃうからっ!」


 血相を変えた安理が、悲痛な叫びをほとばしらせる。


「龍翔サマと明珠チャンの板挟みになった挙句、龍翔サマに処罰されるなんて、さすがに同情するっスよ!」


「処罰……? あの、龍翔様は決してそんな無体なことはなさらないと思いますけれど……?」


 なぜ、龍翔が周康を叩き斬るなどという恐ろしい話になるのだろう。わけがわからず、きょとんと首を傾げると、明珠の顔を見つめていた安理が、やにわに「ぷっ!」と吹き出した。


「も――っ! 明珠チャンってばやっぱサイコー! ほんっと、龍翔サマに全幅の信頼を置いてるんだから~♪ いやぁ、こんないい子に大切に思われて、龍翔サマはほんっと果報者っスね~っ♪」


 楽しくて仕方がないとばかりに笑う安理に、呆気あっけにとられる。先ほどから安理の反応が明珠にはさっぱり理解できない。何か会話が噛み違っているのだろうか。


 頭をひねる明珠をよそに、安理がこの上なく緩みきった顔で何やらぶつぶつ呟く。


「いやぁ~っ、これはさすがに龍翔サマもぐらっといっちゃうデショ? たとえ明珠チャンがその気じゃなくてもね? こんなに一途に想われたら、そりゃもー、うっかり進んじゃったとしても誰も咎めないって! まさか、『花降り婚』の前に一足早く龍翔サマのお望みが叶うなんて……っ! こりゃもうオレも腕によりをかけちゃうよっ!?」


「あ、あの――」

「明珠チャン!」


「ふぇっ!?」

 不意にがしっと両肩を掴まれ、悲鳴が飛び出す。


「とりあえず、ご飯を食べちゃおう! そうしたらオレ、全力で準備を整えてあげるから!」


「は、はあ……。よ、よろしくお願いします……」


 らんらんと目を光らせ、気合いを込めて告げる安理の勢いに呑まれ、明珠はわけもわからぬまま、こくこくと頷いた。


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