103 宴の前に その2


「でも、前に安理さんが、龍翔様はお酒にお強くて、人前では決して酔ったりなさらないっておっしゃってたんですけど……。そんな龍翔様でも飲み過ぎて酔ってしまうなんて、宴で出るお酒って、それほどおいしいんですね。あっ、別に飲んでみたいというわけじゃないんですけれど……」


「……安理が、そんなことを言っていたのか?」


 意外そうな龍翔の呟きに、明珠は両頬をはさまれたまま、こくんと頷く。どんどん頬が熱くなってきてているので、そろそろ放してほしいのだが……。


「は、はい。乾晶でお留守番をしていた時に……。龍翔様は特別だ。どんなに飲んでも、他人と思っている人の前では、絶対に酔わない、って……」


 話ながら、ふと気づく。


 以前、明珠に酔った姿を見せてくれたということは。


 龍翔は、多少なりとも明珠に気を許してくれているということだろうか。


 嬉しい、と心に喜びが湧きあがる。

 自分などが龍翔の役に立てているとは思わないが、せめて明珠のそばでくつろげるというのなら……。これほど嬉しいことはない。


 と、龍翔が不意に口元をほころばせた。


「確かに、安理の言う通りだな」


 甘やかな笑みに、ぱくんと心臓が跳ねる。


「わたしを酔わせるには、酒も酌女しゃくめもいらぬ。わたしを酔わせるのは――お前だけだ」


「ふぇ?」


 謎の言葉に戸惑った声を上げると同時に、「龍玉を」と柔らかな声で促され、あわてて守り袋を握りしめると固く目をつむる。


 頬を包む両手がそっと上向かせたかと思うと、優しいくちづけが落とされた。


「すまんが、まだだ」


 わずかに離れた唇が低い囁きを紡ぎ、ふたたび唇をふさがれる。


 先ほどよりも、深いくちづけ。


 頬を包んでいた手が耳を撫でて頭の後ろに回され、もう片方の手が背中をすべり落ちて腰の後ろに当てられる。と、ぐい、と抱き寄せられた。


 龍翔が纏う華やかで高貴な香の薫りがさらに強く揺蕩たゆたい、溺れそうな心地になる。


 明珠の息が苦しくなる前に唇を離してくれた龍翔が、低い声で困ったように呟いた。


「こうしてお前にくちづけていると……。厄介な宴になど、行きたくなくなってしまうな……」


「えぇぇっ!?」


 驚きに思わず目を開け、龍翔を見上げると、「冗談だ」と優しく頭を撫でられた。


「さすがに、今宵の宴は欠席するわけにはいかぬ。《気》は足りるゆえ、もしわたしが遅くなった時には、待たずに休んでいてよいぞ」


「は、はい。ありがとうございます」


 龍翔の気遣いに感謝し、身を離そうとするが、抱き寄せた腕はまだ緩まない。


「安理にも命じているゆえ、何事もないと思うが……。よいか? もし、玲泉が来たとしても、決して扉を開けるのではないぞ? お前自身が言葉を交わすこともならぬ。すべて安理を通せ」


「ええっ!? そこまでですか……っ!?」


 驚きの声を上げた明珠は、しかし龍翔の真剣なまなざしにぶつかると、あわててこくこく頷く。


「は、はいっ! わかりましたっ! ちゃんと龍翔様のお言いつけを守りますっ!」


 こくこくこくっ、と頷いたところで、内扉が遠慮がちに叩かれる。聞こえてきたのは張宇の声だ。


「龍翔様。そろそろ宴へ赴かねばならぬ頃合いですが……」


「わかった。すぐに行く」

 扉を振り返りもせず答えた龍翔が、明珠を見下ろす。


「よいか? 先ほどの言葉を忘れるのではないぞ?」


「は、はいっ! 玲泉様がいらっしゃっても、決して扉を開けない。やりとりをしないといけない時は、安理さんを通じてする、ですよね!?」


 龍翔の真剣極まりない表情に、明珠も表情を引き締め、こくこく頷く。


「うむ。いい子だ」

 龍翔が子どもを褒めるように優しく頭を撫でてくれる。


「ちゃんと守るのだぞ? でなければ――」


 ふ、と龍翔の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

 かと思うと、ぐいと明珠を抱き寄せた龍翔が耳元に口を寄せ。


「破った時には、『おしおき』をするぞ?」


「っ!? ひゃあぁっ!」


 低い声が囁き終わった瞬間、軽く耳朶じだまれ、悲鳴が飛び出す。


「な、なななななになさるんですか――っ!?」


 びっくりして心臓が止まるかと思った。


 半泣きになって押し返す明珠に、「すまんすまん」とくすくす笑いながら龍翔が詫びる。


「ちゃんと釘を刺しておいた方がよいかと思ってな」


「く、釘なんて刺さなくても、龍翔様のお言いつけを破ったりなどしませんっ!」


 反射的に抗弁するが、過去に明珠が何度も龍翔に心配をかけてしまったのは、まぎれもない事実だ。


「そ、そりゃあ、破ってしまったこともありますけれど、破ろうと思って破ったわけじゃなくて……っ。ううっ、でも……っ」


 じわりと涙がにじみそうになる。

 情けなさに胸が締めつけられる心地を覚えながら、おずおずと龍翔を見上げた。


「す、すみません……っ。こんな私じゃ、龍翔様に信じていただけないですよね……、っ!」


 告げた瞬間、不意打ちでくちづけられる。


 噛みつきたいのを無理やりこらえるかのような、深いくちづけ。


「んぅ……っ」

 思わず声が洩れるが、抱き寄せた龍翔の腕は緩まない。


「まったく……。そんなにいじらしいなんて、卑怯だろう?」


「ひ、ひきょ……? え、え?」


 ゆっくりと唇を離した龍翔がこぼした謎の呟きに、頭の中で疑問符が踊る。

 明珠をぎゅっと抱き寄せたまま、龍翔が深く嘆息した。


「……ますます宴に行きたくなくなった」


「えぇぇっ!? ど、どうなさったんですか!? あのっ、張宇さん達がお待ちに……っ!」


 いったい急にどうしてしまったのだろう。


 おろおろと張宇が控えているだろう内扉と主の秀麗な面輪を交互に見ていると、龍翔が仕方がなさそうにもう一度吐息した。


「お前に呆れられるわけにはいかぬからな。真面目に行ってくるとしよう。その代わり……」


 そっと龍翔の手のひらが、優しく明珠の頭を撫でる。


「明日にでも、またわたしを癒してくれるか?」


「は、はいっ! 龍翔様がお望みでしたら、何で――」

 告げようとした言葉は、龍翔の指先に唇を押さえられ、遮られる。


「それ以上はだめだ。本当に、宴をすっぽかしてしまいたくなる」


 苦笑した龍翔がもう一度、明珠の髪を撫でる。


「では、行ってくる」


「はっ、はい! 行ってらっしゃいませ!」

 きびす返した凛々しい主の背中に、明珠は深く頭を下げた。


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