95 まだ伝えられていないことがあってだな……。 その2


「ところで、玲泉様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」


「玲泉様? ああ……」

 周康の問いかけに、張宇が頷く。


「玲泉様は、晟都に到着した日から、瀁淀の屋敷に身を寄せてらっしゃるんだ。瀁淀を追い落とす証拠を掴めないかと、密かに調べてくださっているんだが……」


「なるほど。玲泉様は王宮ではなく、瀁淀の屋敷に……」


 周康にとって、玲泉は命の恩人だ。あの時、玲泉が駆けつけてくれなければ、どうなっていたことか。


 晟都に着いた際には、重々礼を申しあげねばと思っていたが、王宮に滞在していないとは、予想外だった。


 と、扉が叩かれる音が耳を打つ。


「明順、張宇。いま戻った。周康も到着しておるか?」


「はい、殿下。長らく不在にし、申し訳ございませんでした」


 扉を開けつつ問われた声に、周康はさっと卓から立ち上がると、床に片膝をついてこうべを垂れた。


 入ってきた龍翔の足音が近づいてきたかと思うと、左肩にてのひらが置かれる。


「よく、無事に戻ってきてくれた。嬉しいぞ。身体に不調は残っていないか?」


「はい。殿下がゆっくり療養させてくださったゆえ、もうどこにも不調はございませぬ。ご迷惑をおかけした分、殿下のお役に立てるよう、粉骨砕身してお仕えいたします」


 気遣いに満ちた龍翔の声音に、己の心配が杞憂であったことを安堵しながら、さらに深く頭を下げると、


「うむ。頼んだぞ」

 と力強い声が返ってきた。と。


「明順?」


 龍翔の声がいぶかしげに低くなる。龍翔が足早に周康の横を通り過ぎたかと思うと。


「どうした? 目元が紅いぞ? もしや……。泣くようなことがあったのか?」


 龍翔から立ち昇った冷ややかな圧に、じわりと背中に汗がにじむ。


 不安に突き動かされるように顔を上げると、ちょうど龍翔が明珠の頬を両手ではさみ、顔を近づけている姿が見えた。


「り、龍翔様っ!?」


 うろたえた声を上げる明珠は、一瞬にして顔が真っ赤に染まっていて、あれでは目元が紅いのも、まぎれてわからなくなっているに違いない。


 が、明珠を見つめる龍翔の表情は真剣そのものだ。


 明珠が龍翔の手から逃れようと身動みじろぎしながら、あわあわと声を上げる。


「た、たしかに泣いちゃいましたけど、それは周康さんのご無事な姿を見て、安心したからで……っ! 哀しくて泣いたわけじゃありませんから、大丈夫です!」


「そうか。ならばよいが……」


 答えつつも、龍翔の両手は明珠の頬を包んだままだ。


 あまりの距離の近さに、もしやこのまま明珠にくちづけるのではないかと、らちもない妄想が脳裏をよぎる。


「龍翔様! 大丈夫ですからお放しください!」


 いまや熟れたすもものように真っ赤になった明珠の叫びに、龍翔が頬を包んでいた手をようやく放す。と、次いで明珠の頭を撫でた。


「ずいぶんと周康のことを心配しておったものな。お前が憂いが晴れて、わたしも嬉しい」


 明珠の頭を撫でる手つきは、まるで宝物にふれるかのようだ。甘やかな笑みを明珠に向ける龍翔の視界には、周康はおろか、張宇も、一緒に入ってきた季白も、入っていないに違いない。


 改めて記憶を探るまでもなく、龍翔は従者達の中でも、ことのほか明珠を大切に慈しんでいた。今いる従者の中で、少女は明珠ひとりだし、天真爛漫てんしんらんまんな明珠が、ついあれこれと世話を焼きたくなる愛らしさに満ちているのもわかる。


 だが、龍翔が明珠に向けるまなざしも声も、以前からこれほど甘やかだっただろうか。


 それとも、しばらく離れていたせいで、そう感じるだけなのか。


 まさか、龍翔に確かめるわけにもいかず、思い悩んでいると、周康の表情を読んだらしい張宇が、困ったように凛々しい眉を寄せて、小声で「あー……」と呟いた。


「その……。なんだ、周康がいない間にだな……」


「龍翔様。玲泉様より届いている文は、ご確認なさいますか? ご不要ならば、わたしで確認して返事をし、後ほどご報告いたしますが」


 眉間にしわを寄せ、妙に苛立たしげな口調で季白が龍翔に問いかける。季白が手に持つのは、美しい装飾がほどこされた文箱だ。


 龍華国の王城でも粋人と名高い玲泉にふさわしく、蓮の花が繊細に彫刻された装飾は、見事のひと言だ。


 が、男同士でやりとりするには、やけにつやめいた紋様ではなかろうか……。


 そこまで考え、王城での玲泉の数々の浮名を思い出す。


 玲泉なら、龍翔に、恋文を入れるのがふさわしいような美しい文箱を送っても不思議ではない。


 それにしても、季白が龍翔にこんな態度をとるなど珍しい。

 本当に、周康が療養している間に、いったい何があったのだろう。


 忠臣の問いに、龍翔が明珠から身を離し、季白に向き直る。


「いや、玲泉からの文ならば、わたしも目を通しておくべきだろう。季白、お前に返事を頼む時は、おって指示する。……おいで、明順」


 龍翔に手を取られた明珠が、きょとんと小首をかしげる。


「えっ、あの、玲泉様からのお手紙を読まれるのでしょう……?」


「だからだ。前にも言っただろう? 仮にもお前宛ての文を、わたしが勝手に読むわけにはいかぬ。かといって、玲泉からの文だ。どんなとんでもないことが書いているか予測がつかぬゆえ、決してお前ひとりに読ませるわけにはいかぬ。あちらで一緒に読もう」


「そ、そうですね! 私では玲泉様の暗号を読み解けるとは思えませんし……っ」


 片手に文箱を持った龍翔が、明珠の手を引いて、内扉でつながった隣室へと歩を進める。さっと動いた張宇が、主のために恭しく扉を開けた。


 龍翔と明珠が出ていき、ぱたりと扉を閉めた張宇が、周康を振り返り、困ったように眉を下げる。


「その……。なんだ。まだ周康に伝えられていない重要なことがあってだな……」


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