95 まだ伝えられていないことがあってだな……。 その1


 緊張とともに向かった王宮で真っ先に周康を出迎えてくれたのは、恐れていた龍翔ではなく、こぼれんばかりに目を見開いた明珠だった。


「し、周康さん……っ!?」


 王宮の官吏に案内された部屋に入るなり、張宇とともに卓の上の書類に向かっていた明珠の大きな瞳が、信じられぬものを見たようにみはられる。


 かと思うと、大輪の花が咲くかのように、輝くばかりの笑顔がこぼれた。


「よかったぁ……っ! おかえりなさいっ! あっ、お身体の調子はいかがです――ひゃっ!?」


 卓を回り込み、駆けてきた明珠が、あまりにあわてすぎたのか、何もないところでつまずく。


 前のめりになった身体を、周康は反射的に抱きとめた。薄手の夏衣に隠された柔らかな重さが腕にかかり、わけもなく心臓がとどろく。


「大丈夫ですか? ……えーと、わたしは大丈夫です……」


 我ながら変な言い方だと呆れながら、明珠に告げる。この天真爛漫な少女を相手にすると、どうにも締まらない。


「す、すみませんっ!」

 明珠があわてて様子で身を起こす。


 だが、周康の衣をぎゅっと掴んだ手は、握りしめた形のまま、放れない。


「よ、よかった……っ。周康さんがご無事で、本当に……っ」


 うつむいている明珠の声が潤みを帯び、周康は度肝を抜かれた。

 周康の衣を骨が白く浮き出るほど強く握りしめた手は、かすかに震えている。


「本当に、ほんとうによかったです……っ! わ、私、周康さんに謝らないとって、ずっと思っていて……っ!」


 ぽたり、と足元の床に雫が落ちて、周康は今度こそ混乱の極みに陥った。


 わたわたと明珠に掴まれて動かしにくい手を伸ばし、無我夢中で明珠の頭を撫でる。


「あ、謝る必要なんてありません! むしろ、守り切れなかったわたしの不甲斐ふがいなさをお詫び申しあげねばと……っ!」


「ちが……っ! 違いますっ!」

 ぶんぶんと明珠が激しくかぶりを振る。涙の雫がぱたた、と散った。


「わた、私がもっとちゃんと術を使えたら、周康さんも心おきなく立ち向かえたのに……っ! なのに、役立たずの私なんかを庇ってくださって……っ! 本当にありがとうございます! それと、本当にすみませんでしたっ!」


 衣を握りしめ、ひっくひっくとしゃっくりをあげる明珠の頭を、周康はもう一度撫でる。

 今度は優しく、そして想いをこめて、しっかりと。


「お願いですから、泣かないでください。お嬢様に泣かれては、どうすればよいかわからなくなってしまいます。……お嬢様にお怪我がなくてよかったと、わたしは心の底から思っているのですから。賊を逃してしまったのは痛恨事でしたが、お嬢様がご無事であることのほうが、わたしにとっては大切です」


 本心から告げる。

 もし明珠が傷を負っていたら、周康は今、無事ではいまい。


「周康さん……っ!」


 明珠が、感動に震える声とともに顔を上げる。愛らしい面輪には、幾本も涙の筋が流れていた。今もまだ、大粒の涙がこぼれんばかりになっている。


 周康の姿を見て、こんなに大泣きしてしまうほど心配してくれていたのかと、恐縮すると同時に、胸の奥にあたたかな気持ちが湧きあがる。


 これほど、周康の身を案じてくれた人など、今までいただろうか。


 記憶を探った脳裏に、一人の女人の姿が思い浮かぶ。


 明珠の母の麗珠だ。彼女はいつも、周康が危険がある任務に就く時は、心から無事を祈ってくれていた。もちろん、その対象は周康だけではなかったが。

 明珠の情が深いところは、きっと母親譲りなのだろう。


 胸にともるあたたかな気持ちのままに、周康は視線を合わせて明珠に微笑みかける。


「お嬢様にそんなにご心配いただけるとは……。この周康、光栄の極みでございます。賊に襲われた時、お嬢様がとっさに侍女を庇おうとなされたように、わたしも、無意識に身体が動いたのです。ですから、お嬢様は何も悪くはありません。悪いのは、賊なのですから」


 周康の言葉に、明珠が目をみはる。大きなまなこから、最後の涙がぽろりと転がり落ちた。


「龍翔様も……。同じことをおっしゃっていました……」


「殿下らしいですね」


 明珠の様子から推測するに、賊の襲撃の直後は、きっと哀しみと罪悪感にうち沈んでいたに違いない。

 龍翔のことだ。掌中の珠を慈しむように、明珠を慰めたことだろう。


 頭を撫でていた手で、懐から手巾を取り出し、明珠の濡れた頬をぬぐおうとすると、明珠が衣を掴んでいた手を弾かれたようにぱっと放した。


「す、すみませんっ! 大丈夫ですから!」

 ごしごしと自分の衣の袖で目元をぬぐう。


 一歩退いた明珠に代わって、穏やかに声をかけてきたのは、卓から立ち上がった張宇だった。


「おかえり、周康。戻って来てくれて、俺も嬉しいよ。身体のほうはもう大丈夫なのか?」


「はい。淡閲たんえつでゆっくり療養させていただいたおかげで、すっかり回復しました。ご心配とご負担をおかけして申し訳ありませんでした」


 丁寧に頭を下げると、張宇が「いや、気にしないでくれ」 と、ゆったりと笑う。


「無事に戻ってきてくれただけで本当にありがたいよ。こちらは今、あれこれと難問が山積みでな。戻ってきたばかりで悪いが、周康にもすぐあれこれと働いてもらわなきゃならん。龍翔様や季白と文のやりとりはしていただろうが、知らないことも多いだろう。立ち話もなんだし、とりあえず座らないか。伝えておきたいことがたくさんあるんだ」


「じゃあ私、冷たいお茶を用意しますね!」


「明順、ついでに菓子も出してもらっていいか? 俺の買い置きの中から、好きなのを出してくれていいから」


「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」


 まだ顔に泣いた跡はくっきり残っているものの、明珠が笑顔を見せてくれてほっとする。


 明珠が茶菓の準備をしてくれている間に、張宇があれこれと冊子や巻物が広げられていた卓の上を張宇が簡単に片づける。


 《氷雪蟲》で冷やしていたのだろう。明珠がよく冷えた茶と菓子を持って来、三人そろって卓についたところで、張宇が周康が淡閲で療養している間に起こったことを教えてくれる。


 逃げた賊はその後、襲撃もなく、行方がまったく掴めなくなっていること。汜涵しかんで藍圭と合流し、晟都へ来たが、瀁淀の人となりを見るに、証拠こそないものの、前国王夫妻の暗殺を企てたのは瀁淀で間違いないだろうとのこと。


 瀁淀と富盈ふえいという大商人が手を組んで『花降り婚』の準備を妨害していたこと。


「周康が淡閲から平底船と木材を運んできてくれたのは、本当に助かるよ。これで、設営もぐんと進むことだろう」


「そういえば、港の一画に舞台がしつらえ始めていましたね」


 船の上から見た光景を思い出す。


「ああ、舞台の土台部分と、装飾の部分とを、それぞれの職人達がいま、大急ぎで造っていてな。少しでも早く婚礼を執り行えるようにと努力している。『花降り婚』が終われば、藍圭陛下の治世もひとまずは落ち着くだろうからな」


「ですが……。婚礼を成就させまいと、瀁淀が暴挙を行う危険性もあるのでは?」


 張宇達がいるならともかく、淡閲で襲われた賊と一対一で相対するのは、もう二度と御免だ。周康には、武芸の心得はないに等しいのだから。


 懸念を口にすると、張宇が精悍な面輪を苦くしかめた。


「これは安理からの情報なんだが……。瀁淀を追い落とすすべを探すだけでも大変だというのに、震雷国しんらいこくの雷炎殿下まで晟都に向かっているらしいんだ。賊も瀁淀の手下ではなく、震雷国の手の者である可能性が高いと……。ああいや、これは魏角将軍の意見だが、龍翔様も、その可能性は否定できないとお考えらしい」


「震雷国まで絡んできましたか……」


 思わず、心の底から嘆息する。


 まったく、遼淵りょうえんに命じられて龍翔に仕えたものの、乾晶けんしょうでは砂波国さはこく、晟都では震雷国と、難題ばかりが持ち上がる。


 龍翔の歩む道のりに、平坦や安穏という文字はないらしい。


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