93 晟都への訪問者 その5


「お願い、ですか……? 何でしょうか? 初華姫様のお願いとあれば、何なりと」


 愛らしく小首をかしげた藍圭に、


「まあっ、そんなにあっさりと「何なりと」なんておっしゃってはいけませんわ」

 と初華が笑顔で注意する。が、その表情はどことなく嬉しげだ。


「お願いといいますのは、雷炎殿下をお出迎えする準備を、わたくしにもお手伝いさせていただきたいのです。正式に正妃となれば、他国からのお客様をお出迎えし、もてなすことも多くありましょう。龍華国と晟藍国では、しきたりも異なりましょう。せっかくの機会ですから、今から学んでおきたいのです」


 初華の言葉に、藍圭の顔が輝く。


「ありがとうございます! 晟藍国にとって震雷国は格上の相手。決して失礼があってはなりませぬ。初華姫様が支度を手伝ってくださるのでしたら、これほど心強いことはありません!」


「藍圭様にそう言っていただけると嬉しゅうございます。では、さっそくお教えいただいてもよろしいですか?」


 初華がちらりと見やると、龍翔が藍圭に頭を下げた。


「藍圭陛下。恐れ入りますがよろしくお願いいたします」


「はい!」


 元気よく頷いた藍圭が立ち上がると、初華や浬角りかくも後に続く。同じく立ち上がろうとする魏角ぎかくを龍翔が呼び止めた。


「申し訳ありません、魏角将軍。淡閲たんえつの総督に依頼していた平底船がそろそろ到着しそうなのですが、港の停泊場所について相談させていただきたいのです。瀁淀に妨害されてはたまりませんから」


「なるほど、そういうことでしたら……」


「魏角将軍。お兄様とお話があるのでしたら、わたくし達は先にいっておりますわ。どうぞお気になさらずごゆっくりと」


 初華が魏角に声をかけ、浬角を供に藍圭と出ていく。


「じゃっ、オレも指示されたことを調べてくるっス~♪」


 安理もひらりと手を振ると、軽やかな足取りで出ていった。

 それを見送ってから、魏角が椅子に座り直す。


「瀁淀の妨害を防ぐなら、水軍が使用している桟橋さんばしを利用されるのがよろしいでしょう。婚礼の舞台を設える場所にも近いため、都合がよいかと。わたしから使用する旨を伝えておきましょう」


 魏角が頼もしく応じる。龍翔がほっとしたように口元をほころばせた。


「ありがとうございます。婚礼の舞台の設営には、水軍もご協力くださるとうかがいました」


「ええ。水軍の者はみな、船に扱いにも慣れておりますゆえ、適任でございましょう。一日も早く『花降り婚』を成就させねばならぬ今、軍の面子めんつにこだわって、職人のような真似はできぬなどと、のんきなことを言っている余裕はございません」


「魏角将軍が率いる水軍が全面的に協力してくださるのはまことに心強いことです。軍相手では、瀁淀も妨害しがたいことでしょう」


 魏角の力強い言葉に頼もしげに頷いた龍翔が、「ところで……」と表情を改め、声を落とす。


「ひとつ、魏角将軍に確認しておきたいことがあるのですが」


「何でございましょうか?」


 魏角が緊張をにじませて龍翔を見返す。深い皺が刻まれたいかめしい面輪を真っ直ぐに見つめたまま、龍翔がゆっくりと口を開いた。


「魏角将軍。あなたは責任感の強い御方です。それゆえに――藍圭陛下が不在の間に、瀁淀に左遷された責任を感じて、思い詰められておられませんか?」


「っ!」


 魏角が鋭く息を飲む。明珠は、堅いいわおが揺れたような印象を受けた。膝の上に乗せられていた分厚い拳が、ぎゅっと握り込まれる。


「責任を感じるのは当然のことでございましょう。お留守の間、晟藍国のことはお任せくださいと申しておきながら、藍圭陛下との約束を破ってしまったのですから……っ!」


 深い後悔がにじむk終えは、聞いている明珠の胸まで痛くなる気がする。


「魏角将軍のお気持ちはわかります」

 龍翔が魏角の心をすくい上げるように、柔らかな声音で頷く。


「わたしも万が一、己の力不足で『花降り婚』を成就できなかったら……。己の不甲斐なさを悔いて、我が身を引き裂きたくなることでしょう」


「っ!」


 とんでもないことをさらりと告げた龍翔に、明珠は思わず息を飲んで、隣に座る主を見上げる。


 明珠の目に映る龍翔は、いつも立派で自信にあふれていて……。


 そのような不安を心の奥底に潜ませていただなんて、考えたこともなかった。


 同時に、龍翔がそれほどまでに『花降り婚』の成就を――初華の幸せを願っているのだと知り、胸が熱くなる。


 心配しなくてよいと言いたげに、一瞬だけ明珠に視線を向けた龍翔が、魏角に向き直る。

 秀麗な面輪に宿る表情は、いつになく硬い。


「わたしは懸念しているのです。魏角将軍が責任を感じるあまり……。相討ちとなってでも、瀁淀を倒そうと考えられているのではないかと」


 龍翔の言葉に、魏角の広い肩が、矢に射られたかのように揺れる。


 驚愕に見開かれた目が、龍翔の指摘が真実であると、雄弁に告げていた。が、明珠にはわけがわからない。


「よ、瀁淀と相討ち、って……。いったいどういうことですか!?」


 龍翔の言葉は、どう贔屓目ひいきめに考えても、不穏さしか感じない。

 震える声で問いかけると、魏角が腹の底から絞り出すように吐息した。


「……なぜ、気づかれたのですか?」


 底冷えするまなざしでにらみつける魏角に、だが龍翔は穏やかに微笑んでみせる。


「お会いしたのは数度ですが、魏角将軍の責任感の強い人となりは感じておりました。藍圭陛下への深い忠誠も……。そして、先ほど雷炎殿下の名が出た時の苛烈かれつな反応……。そこから、推測して、鎌をかけさせていただいたのです」


「……なるほど。見事にしてやられたというわけですな。わたしもまだまだ修行が足りませぬ」


 吐息した魏角が、強いまなざしで龍翔を見据える。


「ですが、そこまで見通されている龍翔殿下ならば、わたしが為すことの意義もご承知でございましょう?」


「確かに、瀁淀と瀁汀さえいなくなれば、そもそも、王位を争う相手が不在となります。藍圭陛下の王位は安泰となりましょう。が……。藍圭陛下は暗殺などという卑怯な手段を望まれる方ではない。それは魏角将軍、あなたのほうがわたしよりもずっとご存じのはず。だというのに……。なぜ、今になって瀁淀を討とうとお考えなのですか? わたしには、そこがわかりません」


 龍翔の問いかけに、魏角は黙して答えない。


 龍翔と明珠と魏角、そして季白と張宇と、人もまばらになった卓に、重苦しい沈黙が落ちる。


 明珠はいらだたしげに眉を寄せた季白が魏角を詰問するのではないかとはらはらした。が、主である龍翔をさしおいて問いただしてはと思っているのか、口に出しては何も言わない。


 無論、明珠などが口を挟めるはずがなく、ただひたすら、緊張に身を固くして黙っていることしかできない。


 どれほどの時間が流れただろうか。魏角が諦めたように深い溜息をつく。


「……わたしだけが呼び止められて残った時点で、勝負はついていたようなものですな。このまま、我慢比べをしていても無為な時間が過ぎるばかり……。これは白旗を上げたほうが賢明なようですな」


「そう言っていただけると、わたしも助かります」


 龍翔がようやく、わずかに表情を緩める。


「魏角将軍を孤立無援にして問い詰める気はなかったのですが……。結果的に、そのような形になってしまい、申し訳ありません。ただ……。藍圭陛下の前では、話しづらいこともあるのではないかと思ったものですから」


 困ったように眉を下げた龍翔の言葉に、魏角がもう一度、深い吐息をこぼす。


「お気遣い、痛み入ります。では――」


 不意に、魏角がぐいっと視線を上げる。


 真っ直ぐに龍翔を見据えた瞳には、歴戦の将軍にふさわしい気迫と厳しさに満ちていた。


「これからお話しすることは、決して藍圭陛下には伝えないでいただけますかな?」


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