92 まだ、お前を腕の中から放したくない その4


「ずいぶんと時間がかかってらっしゃいましたが……。玲泉様からの暗号は、それほどわかりにくかったのですか?」


「いや、そういうわけではない」


 内扉から隣の従者達の部屋へひとり移動した龍翔は、季白の問いに玲泉からの文を差し出した。


 素早く目を走らせた季白が、


「やはり、こちら側へ引き込めそうなのは芙蓮姫ですが……。ひょっとして、瀁淀、瀁汀親子の間に確執でもあれば、と期待しておりましたが、そう都合よくはいきませんね」

 と苦い声で呟く。


「玲泉は、わたし自身が芙蓮姫と話し合う必要あり、と申しておるが……」


 龍翔の言葉に、季白が打てば響くように答える。


「これだけの文面では、なんとも判断しかねます。芙蓮姫は藍圭陛下の異母姉であり、仮にも瀁汀の現婚約者。たとえ裏切りが瀁淀にばれてしまったとしても、すぐには命の危険はないでしょう。ですが、瀁淀は己の野望のために、実の兄夫婦を弑した男。もし、芙蓮姫が、瀁淀が暗殺の首謀者とわかる証拠を握っているとすれば……。芙蓮姫の命も狙われる可能性はございましょう」


 厳しい表情で告げた季白が、


「まあ、単に芙蓮姫の人となりが、警戒心が強く、慎重なだけという可能性もなきにしもあらずですが。もしくは我々を手玉に取ろうと考えるほど、計算高いか……」


 と、難しい表情になる。季白の言に、龍翔はため息まじりに頷いた。


「芙蓮姫について、ほとんど情報がないのが厄介だな。藍圭陛下にも芙蓮姫の性格を尋ねてはみるが、もともとあまり交流はないとおっしゃっていたしな……。玲泉の言に乗ってやるのはしゃくだが、芙蓮姫とは、一度、会ってみねばならんな」


「もう少し、玲泉様に調べていただいてはいかがでございましょう? その中で、玲泉様がうっかり芙蓮姫にふれられ、調子を崩されたとしても、それはそれ。玲泉様は『花降り婚』の準備には携わっておられませんから、いてもいらっしゃらなくても大差ありませんし、むしろ、それで瀁淀を監督不行き届きで訴えることができれば、万々歳でございましょう?」


「季白……」


 真剣極まりない顔で、とんでもないことを提案した忠臣を、龍翔は思わずまじまじと見つめる。と、たまらず吹き出した。


「確かに、それは妙案だな! 芙蓮姫に迫られて、冷や汗を書いている玲泉を想像するだけで、笑いがこみあげてくる」


 そつのない玲泉のことだ。そんな事態に陥るような失態は起こさぬだろうが、想像して溜飲りゅういんを下げるのは龍翔の勝手だ。


 こんな過激な提案をするとは、季白もよほど鬱憤うっぷんが溜まっているのだろう。


「季白。お前にはいつも苦労をかけてばかりですまんな」


 笑いをおさめ、忠臣をいたわると、季白が「とんでもないことでございます!」と千切れんばかりにかぶりを振った。


「龍翔様の御為に働けるのは、わたくしにとって、喜び以外の何物でもございません! 謝罪など、どうかなさらないでくださいませ!」


「だが……」


 いつの日にか、明珠を正妃として迎え入れたいのだと、昼間、心に決めた想いを季白に告げようかと、一瞬迷う。


 だが、ただでさえ今は、『花降り婚』をつつがなく成就させるために奔走している季白なのだ。これ以上の務めを与えては気の毒だ。


 何より、未だ明珠の気持ちを確かめられていないのだから。


 代わりに、龍翔は微笑みを浮かべて季白をねぎらう。


「季白。お前がわたしに仕えてくれているのは、この上ない幸運だ。お前といい、張宇や安理といい……。わたしは、本当に従者に恵まれている。目指す場所はまだ遥かに遠く、道のりは険しいことこのうえない。だが、これからもわたしを支えてほしい」


「龍翔様……っ!」


 かっ、と見開いた季白の目から涙が滂沱ぼうだとこぼれるのではないかと、一瞬、心配になる。


 と、龍翔の手を両手で握りしめた季白が、両膝を床につき、深くこうべを垂れた。


「なんと……っ! なんともったいないお言葉でございましょう! 龍翔様にそのように言っていただけるとは……っ! わたくし、感動のあまり、胸が張り裂けそうでございますっ!」


「それは困るな。お前には、これから先もずっと、長く仕えてもらわねばならぬというのに」

 からかい混じりに返すと、


「もちろんでございますっ! この季白、龍翔様の御為ならば、たとえ骨と皮の老人になろうとも、いいえ! 冥府に行こうと龍翔様のおそばを離れませんっ!」


 と力強い返事が返ってきた。


「そうか。それは頼もしいな」

 笑いながら、立ち上がる季白に手を貸す。


 手の中の玲泉の手紙は、すっかりしわだらけになってしまったが、かまわない。むしろ、明珠への睦言むつごとを書いた手紙など、用が済んだいま、即刻、燃やしてしまいたいほどだ。


「季白。紙とすずりを用意してくれ。玲泉への返事をしたためる。内容は、芙蓮姫と会うのは了承するが、芙蓮姫の人となりについて、もっとくわしく報告せよという指示と、瀁淀と富盈ふえいの横領の証拠を探せという指示と……。他に伝えておくべきことはあるか?」


「いいえ。まずはその二点でよろしいかと」


 名残惜しそうに龍翔の手を放した季白が、てきばきと文を書く準備をしながら応じる。


 待っている間に、すでに墨をすっていたのだろう。部屋の中には、爽やかな墨の香りが漂っていた。


「あまりに長い返事を書いては、瀁淀に怪しまれるかもしれません」


「わたしの大切な従者にちょっかいをかけるなという文句なら、いくらでも書けそうだがな」


 答えながら、季白が引いた椅子に腰かける。


 瀁淀の目を眩ませるためとはいえ、他人が見れば、恋文としか思えぬ手紙を明珠に送るなど……。


 しかも、男女が一夜を共にするという意味を持つ双頭蓮の刺繍入りの手巾を同封するなど、腹立たしいことこの上ない。


 明珠が双頭蓮の意味を知らなくてよかったと、心の底から思う。純真な瞳で「これは、どういう意味なんですか?」と問われたら、答えにきゅうしていたに違いない。


「季白。文は明日の朝に渡すゆえ、お前はもう休んでよいぞ。わたしも文を書き終えたらすぐに休む」


「いいえ! 龍翔様おひとりを働かせるなど、とんでもないことございます! 龍翔様が書き終えられるまで、わたくしも書類仕事をいたします!」


 書類を抱えてきた季白が、いそいそと龍翔の向かいに座る。


「……こうしていると、黒曜宮にいるようだな」


「まことにその通りでございますね。わたくしにとっては、至福の時でございます」


 季白がうっとりとした表情で応じる。


 書類仕事が至福とは……。仕事中毒な季白らしいが、無理をし過ぎではないかと心配になる。


 『花降り婚』が無事に終わったら、帰路の船の中では十分に休養を取らせてやらねばならんなと、龍翔は心の中で決意した。


   ◇   ◇   ◇


 書き終えた玲泉への手紙を季白に託した龍翔は、そっと内扉を開けて私室へ戻った。


 蝋燭ろうそくが数本だけ灯る室内は暗く、しんと静まり返っている。


 真っ直ぐ寝台に行かねばと訴える理性を無視して、誘われるように歩を進めてしまった先は、明珠が休む寝台だ。


 衝立ついたての向こうへ回り込み、明珠の寝顔をひと目見ただけで、己の唇が柔らかな弧を描くのを感じる。


 足音をひそめ、寝台のすぐそばへ寄っても、明珠はまったく起きる気配がない。両手でぎゅっと掛け布団を抱きしめ、すよすよと眠り続けている。


 夜着の短めの袖から覗く夜目にも白い素肌。長いまつげが濃い影を落とすあどけない寝顔。あえかな寝息をこぼす柔らかな唇――。


 蜜の吐息を洩らす唇にくちづけたい誘惑を、理性を奮い立たせてこらえる。


 この可憐な蕾を己の腕の中で花咲かせたいという欲望はもちろんある。


 だが、それは今ではない。それよりも先に龍翔がしなければならぬことは、山とあるのだから。


 だから、それまでは。


「……おやすみ、明珠」


 眠る愛しい少女にそっと囁き、龍翔は己の寝台へときびすを返した。


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