87 役立たずで情けなくて……。 その2


「もしかして、変なことを考えていないか?」


「へ、変なことじゃありません!」

 張宇の問いかけに、ぶんぶんと首を横に振る。


「わ、私ならひとりで大丈夫です! 玲泉様も瀁淀様のお屋敷に行ってらっしゃいますし、決して部屋から出たりしませんから……っ。だから、張宇さんも龍翔様のところへ行っていただいたらと思って……」


「それはできないよ、明順」


 幼子にわがままを言われたかのように、張宇が困り顔でかぶりを振る。


「龍翔様に、決して明順のそばを離れないよう厳命されている。たとえ、玲泉様が王宮にいなくても、だ。龍翔様のご命令に背くことはできないよ」


「で、でも……っ。張宇さんが私についてくださっているせいで、手が足りなく……。私なんかのせいで、龍翔様にご迷惑をおかけするなんて、嫌です!」


 自分のふがいなさが情けなくなる。


 留守番ひとつ、満足にできないなんて。

 明珠などが、季白達のように龍翔の手足となって働けるとは、最初から思っていない。


 けれど、せめて足手まといにはなりたくないのに。


 情けなさに涙がにじみそうになって、唇を噛みしめて下を向く。明珠が泣いたりしたら、心優しい張宇を困らせてしまう。そんなのは嫌だ。


 明珠がひとりでも大丈夫なのだと張宇を説得しなければと、何と言えばよいが悩んでいると、


「明順は、決して「私なんか」と卑下するような存在じゃない」


 穏やかな声とともに、優しく頭を撫でられた。


「龍翔様の禁呪を解くことは、明順にしかできないことだ。それだけじゃない。明順の存在が、龍翔様にとっては癒しになっているんだぞ?」


「ふぇっ!?」

 予想だにしない言葉に、間の抜けた声とともに顔を上げる。


 正面に立った張宇が、視線を合わせるように長身をかがめ、明珠を真っ直ぐ見つめていた。


「明珠が仕えるようになってから、龍翔様はくつろいだ表情をなさることが多くなった。俺や季白……。安理や梅宇おばさま達も、心からの忠誠を捧げてはいるが、いかんせん龍翔様には敵が多い……。宮中での龍翔様は、政敵に隙を見せぬよう、四六時中、気を張ってらっしゃった。けれど」


 くしゃりと張宇の大きな手が明珠の頭を撫でる。


「明順が仕えるようになってから、龍翔様は屈託ない笑顔を見せられることが多くなった。龍翔様が心安らげる時間をお持ちになられるようになったことを、俺は従者の一人として、素直に喜んでいるよ」


「え……っ」


 意外な言葉に、ぱちぱちと目をまたたく。


 明珠が龍翔に抱く印象と言えば、思わず見惚れずにはいられないほど、誰よりも凛々しく、立派で……。


 けれども、従者達の前ではよく笑顔を見せてくれるばかりか明珠のような取るに足らない者でも優しく気遣ってくれ、時には悪戯っぽくからかったりもする……。そんな印象なのだが。


 敵対する者や、味方かどうか判断がつかぬ者に対する時の厳しく苛烈な表情は、明珠も何度も見たことがある。


 磨き抜かれた刃のような威圧感は、ふだんの優しい龍翔を知る明珠でさえ、畏敬に打たれて身を強張らせてしまうほどだ。


 敵に隙を見せることはできないとはいえ、ずっと気を張ったままでは、さしもの龍翔でさえ、疲れ果ててしまうのではなかろうか。


 心配が顔に出ていたらしい。張宇が、見る者を安心させるような穏やかな笑みを浮かべる。


「明順は、自分がお仕えする前の龍翔様のご様子を知らないから、実感がないだろうが……。俺は、龍翔様のお心を癒すことに関しては、明順が一番けていると思うよ。政敵に狙われ、隙を見せられぬお立場だからこそ……。わずかなりとも、休める時には心安らかにお過ごしいただきたいんだ」


 龍翔を思いやる真摯しんしな声。張宇の穏やかな声を聞いていると、その言葉を信じたくなる。


「わ……、私でも、ほんの少しは龍翔様のお役に立てているんでしょうか……?」


 不安におののきながら尋ねると、「もちろんだ」と力強い頷きが返ってきた。


「俺の言葉だけじゃ信じられないというのなら、龍翔様にもうかがってみるといい」

「い、いえっ! 龍翔様に確認までは……っ」


 優しい龍翔のことだ。きっと、明珠が不安な顔で「お役に立てているでしょうか……?」と尋ねれば、たとえ役に立てていなくても、明珠を傷つけぬよう、気遣ってくれるに違いない。


 それに、もし万が一、龍翔に正直に「役に立っておらんな」と告げられたら、哀しみのあまり、泣き崩れてしまいそうだ。


「これは、俺の勝手な願いだが……」


 ふと、張宇が視線を落とす。


「張宇さん?」


 呼びかけると、張宇がためらうように視線をさまよわせた。

 が、不意に顔を上げ、明珠を正面から見つめる。


「できれば、龍翔様の禁呪が解けた後も……。明順には、ずっと龍翔様のおそばに仕えてもらえたら、と……。ああいや! もちろん明珠の気持ちが最優先なんだがっ!」


「わっ、私も……っ!」

 驚きに息を飲んだ明珠は、思わず両手で張宇の大きな手を握りしめる。


「私も、できればずっと龍翔様にお仕えさせていただきたいんです……っ!」


 龍翔以外には告げたことのない願いを口にすると、張宇が「えっ!?」と固まった。


「明珠、それは……!?」


 驚愕に強張った張宇の面輪に、明珠はとんでもないわがままを言ってしまったと、あわてて言を継ぐ。


「だ、だって、龍翔様ほど素晴らしい御方を存じ上げませんから! そんな御方にお仕えさせていただけるなんて、この上ない幸せだと思います! そ、そのっ、黒曜宮の下働きで十分ですのでっ!」


「下、働き……?」

 張宇がぎこちなくぽつりと呟く。


「そうです! 掃除洗濯お裁縫はもちろん、庭掃除でもどぶさらいでも、なんでもやりますから……っ!」


 どうか、反対されませんようにと祈りながら見つめていると、不意に張宇がぶはっと吹き出した。


「に、庭仕事にどぶさらい……っ」


 ふっくくくく、と広い肩を震わせ、こらえきれぬ笑いをこぼす張宇に、さらにあわてる。


「だ、大丈夫ですよ! 実家にいた頃は、日雇いの仕事でどぶさらいだってやってましたし、かまど掃除とか汚れ仕事だって、ちゃんとやりますから……っ!」


「ちょっ、ちょっと待ってくれ……っ! もう、俺の腹筋が……っ!」


 腹を抱え、長身を折り曲げて笑い転げる張宇に、呆気にとられる。


 張宇は笑い上戸とはいえ、爆笑されるほど変なことを言っただろうか。


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