66 いっそのこと、禁呪など解けなくともよい その1


「まったく! 明順をこんなに泣かせるなんて……っ! ああっ、やっぱり侍女達に命じて叩き出しておけばよかったかしら……っ! 明順、玲泉様のことは気にしなくてよいのよ。あなたが謝る必要なんて、ひとつもないのだもの。いいこと!? もし玲泉様が何か言ってこられたら、すぐにわたくしかお兄様に相談するのよ?」


 龍翔が腕の中から放した明珠を、初華が言葉を尽くして慰める。よしよしと優しい手つきで明珠の頭を撫でる様子は、まるで姉妹のようだ。


「初華姫様、ありがとうございます……っ」


 自分の手巾でごしごしと涙をぬぐっていた明珠が深く頭を下げたところで、玲泉を送っていった安理が戻ってきた。


「あ、龍翔サマ。さすがにそろそろ、玲泉サマの危険性をちゃーんと明順チャンに教えといてくださいね? 玲泉サマ、これからもアレコレ画策してきそうっスから」


 珍しく、安理が真面目な表情で忠告してくる。

 常に自分の好奇心を満たすことと、面白いことを最優先にしている安理には、滅多にないことだ。


 いったい、玲泉とどんな会話を交わしたのか非常に気になるところだが、ようやく泣き止んだものの、悄然と肩を落としたままの明珠を放っておくわけにはいかない。


「……わかった。お前の忠言は心に留めておく」


 胸の奥から、どす黒い闇が侵食しようと鉤爪かぎづめを伸ばしてくるのを振り払うように決然と頷くと、龍翔は明珠の手を取った。


「おいで、明順。ひとまず船室へ戻ろう」


 不安に満ちた面輪を上げた明珠に優しく微笑み、明珠の手を引いたまま初華の船室を出る。隣室へ出た途端、侍女達がかすかなざわめきを上げたが、無視して進む。


「あの……っ」


 明珠が手をほどこうとするが、逆にぎゅっと小さな手を握りしめ、無人の廊下を己の船室へ足早に歩む。


 船室に入り、ぱたりと扉を閉めた途端。


「龍翔様っ! まことに申し訳――、っ!」


 予想していた通り、悲壮な顔で謝ろうとした明珠の手をぐいっと引く。よろめいた身体をしっかと抱きしめ、無理やり言葉を封じ込めた。


「お前が謝る必要はない。わたしは、まったく怒っておらぬぞ?」

「で、ですが……っ」


 明珠が今にも泣きだしそうな顔で龍翔を見上げる。その顔を見た途端、愛しさと申し訳なさが湧き上がり、胸の奥が切なく痛む。


 心中を押し隠し、龍翔は明珠に優しく微笑んだ。


「お前は、わたしのためを思って玲泉に言い返してくれたのだろう? そんなあるじ思いの従者を叱ったりなどするものか」


「で、ですが、そのせいで玲泉様のお怒りを招いてしまって……っ」

「あれは、演技だ」


 ばっさり切り捨てると、明珠が「ふぇっ?」と目を丸くした。

 虚を突かれた顔があどけなくて、龍翔は思わず笑みをこぼす。


「初華も、玲泉のことは気にしなくてよいと言っていただろう? あれは、玲泉の怒りが演技だと見抜いていたからだ」


「で、ですが……っ。どうして、演技なんてなさる必要が……?」


 わけがわからぬと言いたげに小首をかしげる明珠に、龍翔は自分の胸中にどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じる。


 叶うなら、明珠には言いたくなかった。


 告げぬまま、玲泉から守ることができればよいと……。


 だが、今日の玲泉を見て、それは不可能だと思い知らされた。

 玲泉の意図を明珠に知らせずにいるのは、あまりに危険すぎる。いつ、玲泉が明珠の純真さを逆手に取って、手を出すかと思うと、怒りで気が狂いそうになる。


 明珠を手に入れるためならば、玲泉はためらいなく明珠の純潔を手折るに違いない。


 だが……。


 龍翔は己の心によぎった怯懦きょうだを叱咤する。

 安理が忠告する通り、本来ならもっと早く玲泉の真意を明珠に伝え、警戒を促すべきだと、理性ではわかっていた。


 だが、それをしかねたのは――。


 玲泉の申し出に頷く明珠を、どうしても見たくなかったからだ。


 身勝手だとわかっている。だが、いつか他の男のものになるとわかっていながら、禁呪が解ける日まで恋しい少女をそばにおいておくなど――業火に身と心をかれ続けるようなものだ。


 「ずっとお仕えさせてください」と言ってくれた明珠の言葉を疑う気などない。だが、蛟家に嫁ぐ絶好の機会を前にげんを翻さぬ保証など、どこにもない。


「明珠……。お前に伝えておかねばならぬことがある……」


「は、はいっ」

 腕の中の明珠が、緊張した面持ちで頷く。


 このぬくもりを手放したくないと感情が叫ぶ一方で、明珠が玲泉の申し出を受け入れるなら、快く送り出してやらねばと、なけなしの理性が諭している。


 それが、これまで苦労ばかりをかけ続けてきた明珠に、龍翔がしてやれるせめてものことだ。蛟家へ嫁ぐのなら、一介の庶民などではなく、「第二皇子の侍女」という肩書を持っているほうが、まだしも外聞がよいだろう。


 ……もちろん、龍翔にかけられた禁呪が解けてからの話になるが。


 明珠をずっとそばにおいていけるなら――。いっそのこと、禁呪など解けなくともよいとまで思っている自分自身に呆れ果てる。


 心優しい明珠のことだ。禁呪が解けぬままの龍翔を見捨てることは決してしないだろう。


 禁呪を盾に取りすがってでも、明珠を手放したくないと叫ぶ己がいる。


 ……そんな情けない姿を明珠に見せるなど、矜持きょうじが許さぬとわかっているのに。


「あの……。大切なお話があるというのでしたら、お放しいただいたほうが……」


 腕の中の明珠が居心地悪そうに身動ぎしながら訴える。愛らしい面輪はうっすらと紅い。


 だが、腕を緩めれば、そのまま明珠が遠くへ行ってしまう気がして、龍翔は華奢きゃしゃな身体に回した腕に力をこめた。


「り、龍翔様っ!?」

 うろたえた声を上げる明珠を強く抱きしめ、耳元に低く囁く。


「話というのは……。玲泉が、お前に求婚しておる」


 ぴたり、と明珠の動きが止まる。


 次いで放たれるだろう言葉に、龍翔は奥歯を噛みしめて身構えた。

 喜びの声が、それとも龍翔との決別を告げる言葉か……。


 だが、明珠は無言のままだ。


 もしかして、聞こえていなかったのかと、名を呼ぼうとして。


「…………え? ええぇぇぇぇぇ~~~~っ!?」


 突然の大音量が、龍翔の鼓膜を突き破らんばかりに震わせる。

 あまりの大きさに、一瞬、耳がきぃんと不通になった。


「きゅうこん……? きゅうこんって……ああっ! お花をくださるんですねっ! どんなお花なんですか?」


「待て、明珠。何を言っておる?」

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