63 教えてくれるまで、放さぬぞ? その4


「あ、あの……?」


 状況がわからない。

 いったい、なぜ龍翔はこれほど険しい表情をしているのだろうか。


 混乱しながら、明珠はおどおどと身を起こしたままの龍翔の秀麗な面輪を見上げる。


 先ほどまで、機嫌がよさそうだったというのに、今の龍翔は牙を立てる寸前の狼のように、厳しい顔をしている。


 知らぬうちに、いったいどんな粗相をしてしまったのかと、不安で泣きたい気持ちになる。


「あ、あのっ、もちろん龍翔様の禁呪が完全に解けるまで、ちゃんとお仕えさせていただきますからっ!」


 もしかして、禁呪のことで心配させてしまったかと、明珠はあわてて言い募る。


 本当は、禁呪が解けた後もずっと仕えさせてほしいが……。解呪の特性以外に、何の取りえもない明珠がそれを望むのは、わがままが過ぎるというものだろう。


 優しい龍翔は、頼み込めば黒曜宮の下働きとしておいてくれるかもしれない。


 ……季白には、「こんな不出来な従者など、禁呪さえ解ければ用無しですよっ! 退職金なら借金を差し引いた残額を出してやりますから、とっとと実家へお帰りなさいっ!」と蹴り出されそうな予感がひしひしとするが。


 そう思うと、禁呪が解けた後もずっとお仕えさせてくださいなんて、口が裂けても言えない。


 ただでさえ、やむを得ない事情があるとはいえ、迷惑ばかりかけている明珠を雇い、さらには失敗の尻拭いまでしてくれているのだ。


 明珠が従者としてもっとちゃんと働けるようになった時にこそ、龍翔に頼み込もうと思う。


 だから……。


 龍翔からくびを言い渡される覚悟も、辞めた後の身の振り方も、今から少しずつでも準備しておかなければ。


「……先のことなど、まったく考えすらしていなかったわたしは、お前の英明さを褒めるべきなのだろうな……」


 押し倒した明珠を見下ろしたまま、龍翔が低く呟く。

 だが、言葉の内容とは裏腹に、声はくらく、苦い。


「龍翔様? どうなさったんですか? 龍翔様にお褒めいただけることなんて、私まったく――ひゃっ!」


 不意に、持ち上げた右手にくちづけられ、すっとんきょうな声が飛び出す。


「あっ、あのっ! もう痛くもなんともありませんから! ちゃんと治していただいたので大丈夫です!」


 何事もないと、龍翔だって確認したはずだ。


 必死に訴えるが、龍翔は黙したまま、答えない。代わりに、龍翔の唇が指先から手のひらへと辿り、くすぐったさに明珠はふたたび声を上げた。


 ふれるかふれないかという距離で肌の上をすべる唇の柔らかさと熱い吐息に、そわりと背筋が震える。


「お前は、玲泉などより、よほどわたしの心を惑わせるな? ……玲泉に告げた言を翻して、わたしだけの花にしたくなる」


 ちゅ、と手のひらにくちづけた龍翔が低い声で呟くが、くぐもっていてよく聞こえない。


「あ、あの……っ!?」


 いったい、龍翔はどうしたというのだろう。


 まるで飢えた狼の前にいるような心地がする。


 不用意に動けば食べられてしまいそうな緊張感に、身をこわばらせて龍翔を見上げていると、ちらりと視線を落とした龍翔が、困り果てたように苦笑した。


 喉がひりつくような威圧感が、わずかに和らぐ。


「お前に無体なことを強いて、嫌われてはかなわんからな……」


 胸を締めつけられるような苦い声。

 考えるより早く、言葉は口から飛び出していた。


「龍翔様を嫌うなんてこと、起こるはずがありませんっ! いつだって、龍翔様をお慕い申しあげておりますっ!」


 告げた瞬間、龍翔の面輪が凍りつく。

 失言に気づいて、明珠はあわてて言い足した。


「あっ、いえ! お慕い申しあげているというのは変な意味じゃなくてっ! 尊敬していますっていうことで、その……っ」


 とんでもないことを言ってしまったのではないかと、心臓がばくばくする。


 真っ赤になっているだろう顔を見られたくなくて背けようとすると、伸びてきた龍翔の手のひらに頬を包まれ、遮られた。


「まったく、お前は……」


 呆れたような龍翔の声に、情けなくて泣きたいような気持ちになる。


 と、不意に龍翔が覆いかぶさるように身を屈めた。

 秀麗な面輪が大写しになったかと思うと、額にくちづけられる。


「そんなに可愛らしいことを言っていると、かじってしまうぞ?」


 問い返すより早く、耳朶じだまれ、悲鳴が飛び出す。


「なっ!? なななな……っ!?」

 羞恥と混乱でうまく言葉が出てこない。


「ひゃ……っ!?」


 龍翔の唇が耳朶から首筋へとすべり、背中に漣が走る。


「あ、あの……っ!」


 とっさに押し返そうとした手は、龍翔の指先に絡め取られる。

 熱い吐息が肌を撫でるくすぐったさに、明珠はぎゅっと目を閉じた。と。


「龍翔様! よろしゅうございますか!?」


 どんどんどんどんどんっ! と荒々しく扉が叩かれる。聞こえてくるのは、いつになく慌ただしい季白の声だ。


「何事だ?」

 と身を起こした龍翔が問うのとほぼ同時に、季白が告げる。


「初華姫様の元に、藍圭陛下より《渡風蟲》で文が届きました!」

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