60 たった一輪の大切な花 その2
明珠を大切に見守りたい心と、その蜜を思うさま味わってみたいという欲望と。
相反する思いが、身を二つに割かんとばかりに、龍翔の中で荒れ狂っている。
もしここが嵐の夜の海なら、転覆し、溺れ死んでいただろう。だが。
龍翔は一度目を閉じると、深く息を吸い込んだ。
ゆるゆると息を吐きながら目を開け、室内を振り返ると、張宇の陰からこちらを見つめる明珠と目が合った。
心配そうな、けれども龍翔が来てほっと安心しているような、信頼に満ちたまなざし。
ごく自然に頬が緩み、唇が柔らかく笑みを形作る。龍翔の笑みを目にした明珠の頬が、色づいた花びらのように薄紅色に染まった。
龍翔の胸に輝く、たったひとつの愛しい星。
たとえどれほどの嵐が荒れ狂おうと、重く
龍翔は心の中できらめく小さな星を、そっと抱きしめる。
望むのは、無理やり想いを遂げることでも、玲泉に奪われぬよう、奥深くに隠しておくことでもなく。
「苦行? おぬしは思い違いをしておるらしい」
龍翔は静かなまなざしで玲泉を真っ直ぐ見据える。
「わたしの大切な花は、まだ固い蕾なのだ。無理やり開かせて傷つけようとは、欠片も思わぬ。――ならば、花咲く日が来るのを見守る喜びこそあれ、苦しく思う理由がどこにある?」
玲泉などの
心の中を覗けば、いつだって愛しい星がきらめいている。それを胸に抱く限り、道を踏み外してしまうことなどないはずだ。
愛しい少女がいつも笑顔でいられるようにと――何よりも願うのは、明珠の幸せなのだから。
ならば、龍翔が為すべきことは、真実かどうか確かめることもできぬ玲泉の言に踊らされ、揺れ惑うことではない。
「玲泉。おのれの船室へ戻るがよい。おぬしの言葉の真偽が判断できぬ以上、今ここでおぬしと話す意味はない」
「わたくしの助言は不要、と……。つれないことですね」
玲泉が芝居がかった仕草で吐息する。が、整った面輪に浮かぶのは、楽しいと言わんばかりの表情だ。
「明順といい、殿下といい……。なぜ、こうもわたしの予想をことごとく覆されるのです? これほど楽しいことはございませぬ。無精などせず、もっと早くに殿下と知己になっておればよかったと、悔やまれてなりませぬ」
はあぁっ、と玲泉が深く嘆息する。
「……そうすれば、殿下より早く、明順と出逢えていたかもしれぬものを」
思わず睨みつけた龍翔が言い返すより早く、玲泉が諦めたように首を横に振る。
「とはいえ、もはや覆しようのない過去を嘆いても詮無きこと。どうすれば殿下に明順をお譲りいただけるか考えた方がようございますね」
「それこそ徒労だな。何があろうと、わたしは明順を手放すつもりはない」
決然と告げると、玲泉が口元に薄く笑みを刻んだ。
「殿下のお心は承知いたしました。ですが、わたしとて、これに関してだけは、左様ですかと
ゆったりと告げた玲泉が、
「ではね、明順。次こそ愛らしいきみの笑顔を、そばで見せておくれ」
と、部屋の奥の明珠にやにわに話しかける。
「ふぇっ!?」
突然話しかけられた明珠が、張宇の陰ですっとんきょうな声を上げる。
その様子に楽しげに喉を震わせながら、玲泉が
玲泉の後ろ姿を見送ることもせず、萄芭とともに船室に入った龍翔は、わざと音高く扉を閉めた。どうせ、玲泉は毛ほども気にすまいが。
「萄芭、よく玲泉を食い止めてくれた。礼を言う」
玲泉が無理やり船室に押し入らなかったのは、ひとえに女性である萄芭が入り口に立ちふさがっていたためだ。
護衛として、張宇以上の適任はいないのは確かだが、こと相手が玲泉となると、女人が一人いるだけで、格段に明珠を守りやすくなる。
軽く頭を下げて礼を述べた龍翔に、萄芭があわてた様子で「もったいないお言葉でございます」と恐縮する。
四十歳を過ぎている萄芭は、初華が幼少の頃から使えている古参の侍女で、初華の信任が最も厚い。
萄芭ならば決して明珠の正体を他言することはないと初華が太鼓判を押したため、萄芭には、明珠が少女であること、なぜか明珠に限って玲泉がふれても不調にならないため、玲泉が妻として望んでいるという事情を、初華から説明してもらっている。
「初華姫様から、玲泉様の件をうかがった時は、信じられぬ思いでしたけれども……」
去り行く玲泉の姿を扉を通して透かし見ようとするように、目を細めた萄芭が呟く。ふだん、きりりと険しい顔つきをしていることが多い萄芭が、珍しく戸惑った表情だ。
「どうした?」
龍翔が水を向けると、萄芭がためらいがちに口を開いた。
「玲泉様が明順に執着してらっしゃるのは、本当なのでございますね。……あれほど楽しげな玲泉様は、初めて拝見いたしました」
「おぬしは玲泉のことをよく知っておるのか?」
龍翔は、今回、共に差し添え人に選ばれるまで、玲泉とは公務で幾度か話した程度のつきあいしかない。
玲泉自身は、己が何派なのかはっきりと明言してはいないものの、父である蛟大臣が第三皇子派であるため、下手な
遊び人として浮名を流す玲泉の性格が、どうにも相容れなさそうだと敬遠していたという理由もある。
龍翔の問いに、萄芭は「いいえ」とかぶりを振った。
「玲泉様が女人と親しくなさるということはございません。ですが、よくも悪くも目立つ方でいらっしゃいますから。たとえ、まったく相手にされぬとわかっていても、見目麗しい貴公子の噂は、侍女達にとっては、楽しみのひとつでございますので」
「なるほど。そのお前が見て、玲泉の執着は本気だと」
苦い顔で問う龍翔に、萄芭も表情を引き締め、こくりと頷く。
「わたくしが知る玲泉様は、たとえお好みの少年従者や若手官吏にお声をかけられたり、からかわれたりしていても、にこやかな笑顔の下で、どこか退屈そうな雰囲気を隠し持ってらっしゃるご様子でした。わたくしが個人的に感じた印象に過ぎませんが、宮中の玲泉様はいつも、何か夢中になれるものを探していらっしゃるような……。けれども、それを見つけられずに
「……そうか」
玲泉が常にどこか退屈そうな雰囲気を
が、同時に複雑な感情を抱いていたのも事実だ。
名家の嫡男として生まれ、見目麗しい容貌と優れた能力を持ち、官吏としても優秀。ろくに功績を立てずとも、大臣である父親の権勢と、その身に流れる名家の血でもって、将来の安泰は約束されているようなものだ。
それを退屈と思い、男相手の色事に興じて浮名を流すことをなんとも思わぬなど……。
第二皇子として生まれながらも、周囲から
官吏としては優秀でありながら龍翔が玲泉と距離を置いていたのは、そういう事情もある。
むろん、必要とあらば、己の感情など二の次にして、公務を行うつもりでいた。
だが……。
玲泉が明珠を手に入れようと画策しているとわかった今、玲泉の姿を目にするだけで、どうにも苛々として冷静でいられなくなる。
先ほど、乱暴に扉を閉めたのも、ふだんの龍翔ならば決してしないことだ。
龍翔はひとつ吐息し、胸中にくすぶる苛立ちを胸の奥へと追いやる。
従者達の前で――何より、明珠の前で、余裕のない姿など晒したくない。
「萄芭。ともあれ、お前がいてくれて助かった。晟藍国へ着けば、婚礼の準備で忙しくなるのは承知しておる。そこまで無理を言う気はない。だが……。もし初華が許してくれるのならば、晟藍国へ着くまでの間だけでも、わたしが明順のそばに入れぬ時は、明順を玲泉の魔の手から守る盾となってくれぬか?」
心を込めて告げた願いに、萄芭は「もちろんでございます」と恭しく一礼する。
「初華姫様のお許しさえいただけるのでしたら、わたくしでお役に立てることは何でもいたしましょう」
「すまぬが、よろしく頼む」
頷いた龍翔はわずかに萄芭に身を寄せると、声をひそめて問うた。
「それで、明順の体調はどうであった?」
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