60 たった一輪の大切な花 その1


 角を曲がった瞬間、廊下の先に予想通りの人物を見つける。


 開けた扉の前に立ちふさがるようにして、玲泉の応対をしているのは、初華の侍女頭である萄芭とうはだ。


「玲泉! 何をしに参った!?」


 玲泉の目的など、わかりきっている。

 知りつつ厳しい声で問うと、駆け寄る龍翔を振り返った玲泉が、「おやおや」と目を丸くした。


「せっかく、番犬の居ぬ間にと思いましたのに……。お早いお戻りで」


「人の居ぬ間に入り込もうとする泥棒のような輩がおるからな。おちおち留守にもできん」


 答えつつ、萄芭と玲泉の間に割って入る。


 空いたままの扉から、ちらりと室内を確認すると、窓辺に張宇に庇われて立つ明珠の姿が見えた。玲泉の対応に悩んだ末に、見つからないようにこっそりと窓から縛蟲を放ったのだろう。


 明珠に何事もないようで、心の底からほっとする。


 同時に、萄芭を遣わしてもらっておいてよかったと、初華の気遣いに感謝した。


 女性である萄芭が扉の前に陣取っていては、さしもの玲泉も強行突破はできなかったらしい。

 初華さえ許してくれるなら、ずっと萄芭を借り受けたいところだが、今はそれを考えている暇はない。


「何用だ? わたしはおぬしに用などないぞ」


 端正な玲泉の面輪を、視線の矢で貫く気で睨みつける。が、玲泉はどこ吹く風で「おや」と片眉を上げた。


「これは異なことを。お優しい龍翔殿下のこと。きっとわたしがお伝えした件でお悩みであろうと、ご機嫌うかがいにまいりましたのに」


戯言たわごとを。おぬし自身がわたしを惑乱させておいて、ご機嫌うかがいとは片腹痛い」


 はっ、と鼻で笑って吐き捨てると、玲泉が唇を吊り上げた。


「では、知らぬままのほうがよろしかったと?」


 揶揄やゆを含んだ声に、思わず奥歯を噛みしめる。


 龍翔が「否」と答えるのを見透かした上で問いかける玲泉が、腹立たしいことこの上ない。叶うならば、今すぐ剣で叩っ斬ってやりたいほどだ。


 今、ここへ来ているのも、龍翔ならば玲泉に確認するより先に、初華に問うだろうと、そして明珠は船室へ残していくだろうと読んだ上に違いない。さすがに、萄芭がいることまでは読めなかったようだが。


 玲泉の手のひらの上でいいように踊らされている苛立ちに、ぎゅっと拳を握りしめる。が、怒りに視野を狭めれば、それこそ玲泉の思う壺だろう。


 龍翔はひとつ吐息して苛立ちを抑え込むと、あえて笑みを浮かべて玲泉に視線を向けた。


「ご機嫌うかがいと申したな。見たところ、手ぶらのようだが、手土産はなんだ? 先ほどの話の真偽を、包み隠さず明かしてでもくれるのか?」


「殿下がお望みでしたら、そのように」

 玲泉が恭しく一礼する。が、素直に頷けるはずがない。


「ほう。では、ひとつ聞かせてほしいのだが」


「ええ。殿下が望まれるのでしたら、ひとつと言わず、いくらでも」


 玲泉が、本性を知らなければ思わず見惚れてしまいそうなあでやかな笑みを浮かべる。

 龍翔は挑発をこめたまなざしで玲泉を見た。


「いや、ひとつでよい。わたしがおぬしに先ほどの話の真偽を問うたとして――。おぬしが話すことが真実だと、いかにして信ずればよい?」


「っ」


 龍翔の問いに、玲泉が小さく息を飲む。と、芝居がかった様子で嘆息した。


「同じ差し添え人といいますのに……。殿下に信を置かれていないのは、哀しゅうございます」


「わたしの目は硝子玉ではないのでな。見目と口先だけの者に惑わされるほど愚かではない」


「おやおや、これは手厳しい」

 先ほど、哀しいと言った者とは思えぬ様子で玲泉が苦笑する。


「そうですねぇ。裏取りをなさりたければ、我が父にでもご確認ください。……と言いたいところでございますが、あいにく王都からは遠く離れた旅の途上。確かめることは叶いませぬ。となれば、殿下にはわたくしをご信用いただくしかないのですが……」


「おぬしの能力については疑ってなどおらぬ。……が、人柄についてはその限りではないな。そもそも、わたしが居ぬ間を狙う盗人を、どうやって信用せよと?」


 とげを隠す気もなく言い放った龍翔の言葉に、玲泉は軽く肩をすくめる。


「なるほど。殿下に信用いただけていないことはわかりました。が……。わたしは信用できずとも、何人もの皇后を輩出した『蛟家』の名は信じていただけますでしょう?」


 自信に満ちた玲泉の声に、龍翔は沈黙する。


 玲泉が皇族である龍翔や初華よりも、《龍》の気がもたらす害についてくわしい理由は、今まで何人もの皇后を輩出してきた名家ゆえではないかというのは、初華とも話していたことだ。


 龍翔は玲泉の言葉にあえて乗ってやる。


「『蛟家』の名を出すからには、《龍》の気が毒であるというのは、他の貴族達には知らせておらぬ秘事なのだろう? わたしなどに軽々しく教えては、蛟大臣に叱責されるのではないか?」


「明順を傷つけぬためならば、父も許してくれましょう」


 自信に満ちた様子で玲泉が断言する。


「わたしにとって明順は、不毛の荒野に咲くたった一輪の花。望めば、どんな花でも愛でられる陛下に枯らされてはたまりませぬ」


「わたしにとっても、一輪だけの花だ」


 考えるより早く、唇が反論を紡ぐ。


「どれほどの花が咲き乱れていようとも、わたしが魅せられ、かぐわしく感じるのは、たった一輪しかおらぬ」


 龍翔と玲泉の視線が真っ向から斬り結ぶ。


 たとえ、玲泉にとって唯一の相手なのだとしても、明珠だけは渡せない。


 息が詰まるような沈黙を先に破ったのは玲泉だった。

 ふ、と息を吐いた玲泉が、挑発的に唇を吊り上げる。


「では、殿下は己の欲望のためには、花を枯らすのも辞さぬと?」


「そうは言っておらん!」

 反射的に荒々しい声が出る。


「大切な花を傷つける気は毛頭ない!」


「それでは、花を眺めているだけで満足なさると?」


 笑みを深めた玲泉の言葉が、刃のように龍翔の心を貫く。


「さすが、聖人君子の龍翔殿下であらせられる。大切な花をそばに置き――それでありながら、花を摘まずに眺めるだけだなど。いやはや、わたしには思いつかぬ苦行ですな」


「っ!」


 心の奥に巣食う欲望を見透かされたようで、龍翔はぐっと奥歯を噛みしめる。


 明珠にふれ、その蜜を思うさま味わってみたいと――。そんなことは、龍翔が誰よりも一番強く、欲している。


 だが同時に、明珠を傷つける者は、誰であろうと許さない。


 ――たとえそれが、自分自身であろうとも。

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