59 華やかな伏魔殿 その1


「いらっしゃると思っておりましたわ」


 妹の船室を訪れた龍翔を、初華は笑顔で迎え入れてくれた。


 明珠は張宇と萄芭とうはの二人に預けて、龍翔の船室に残している。

 これから初華に確認したい事柄は、とてもではないが明珠に聞かせられるような内容ではない。


 初華の船室には護衛役の季白と安理もいる。立ち上がって一礼しようとする二人を片手で押しとどめ、龍翔は卓についた。


「お兄様が来られたのは、玲泉様がおっしゃっていたことの確認でございましょう?」


 座るなり、初華が単刀直入に切り出す。龍翔は「その通りだ」と頷き、さとい妹を見つめた。


「初華、おぬしは玲泉が告げる前に、言わんとすることに気づいていたようだな。いったい、何を知っておる?」


 真っ直ぐに初華を見つめて問うと、初華は形良い眉を哀しげに寄せて視線を伏せた。


「今日、玲泉様のお言葉を聞くまで、真実かどうかの確信が持てなかったのですけれど……。皇帝の寵を受け、子をした妃が早死にするという噂は、わたくしも何度か耳にしたことがございます……」


「っ!」


 初華の言葉に、覚悟していたとはいえ、思わず息を飲む。


「ですが……っ」

 面輪を上げた初華が、あわてたように言を継いだ。


「後宮は華やかな衣を纏った伏魔殿でございます。陛下の寵を受けるだけでも、他の妃達の嫉妬に晒されるというのに、ましてや御子を身ごもったとなれば……」


「……ねたみ、うらやむ妃達の害意の矛先が向かう事態は、十分にあろうな」


 初華が濁した言葉の先を、龍翔は低い声で口にする。こくり、と初華が頷いた。


今上帝きんじょうていは、帝位につかれてからも、数年の間、世継ぎの男子に恵まれませんでした。その頃を知る者によると、誰が一番先に陛下の御子を授かるかと、当時の後宮は、いつ砕け散ってもおかしくはない硝子の器のように、張り詰めた空気であったと聞いております」


 皇帝の子を、しかも世継ぎとなる男子を生むことができれば、たとえ身分の低い妃であっても、一気に位が上がる。妃の一族が高官に取り立てられる機会も格段に増える。


 それを期待して、多くの貴族達が、先を争うように己の娘を後宮へ差し出す。


 だが、後宮へ入れられた娘達を待つのは、籠の鳥の地獄だ。


 皇帝の目に留まらず、寵を与えられなければ、周りの妃達に軽んじられ、実家からはお前の努力が足りないのだとなじられる。


 だが、寵を得たら得たで、周囲の嫉妬や、やっかみを受ける。

 それだけならばよい。


 子を孕めば――政敵となる他の妃達から殺意を向けられることすら、珍しくない。


 皇帝の寵愛とは、それだけの力があるのだ。

 現に、第二王子として生まれた龍翔は、幼い頃から何度も命を狙われた。下手をすれば、生まれる前に闇に葬られていたかもしれない。


 第一皇子・龍耀りゅうようの生母・瓓妃らんひは、龍耀が生まれた時から、我が子をなんとしても帝位に就かせんと躍起になっている。龍耀が長ずるにつれ、《龍》をび出すことはできるものの、その力がさほどではないと判明してからは、なおさらだ。


 我が子を皇帝にするために、まだ脅威となるかもわからぬ小さな芽まで踏みにじり、絶やそうとするさまは、狂気すら感じる。彼女に指示によって摘み取られた赤子が、いったい何人いるのか――おぞましすぎて考えたくもない。


 龍翔にかけられた禁呪についても、瓓妃の差し金ではないかと、ひそかに疑っている。が、確たる証拠もないままにそんなことを口にすれば、潰されるのは龍翔のほうだ。


 名門貴族の出であり、高位の官僚である父の後ろ盾を持つ瓓妃は、今の龍翔では太刀打ちできぬほどに強大だ。


 加えて、龍翔の政敵は一人ではない。


 第三皇子・龍誠りゅうせいを擁する派閥もある。

 龍誠は生まれた順こそ三番目だが、生母・蕙妃けいひは皇后だ。血筋としては、一番正統といえる。


 もちろん、皇后を輩出するだけあって、蕙妃の生家は蛟家に次ぐ名門だ。


 龍誠自身がまだ成人を迎えておらず、どれほどの《龍》の力を引き継いでいるかわからぬだめ、龍翔としてはまだ様子見の状態だが……。


 第一皇子派と第三皇子派の間では、すでに水面下で熾烈しれつな権力争いが繰り広げられているらしい。


 数年後、龍誠も成人し、『昇龍の儀』に参加するようになれば、争いがさらに激化するのは目に見えている。


 皇帝は今はまだ、三人の皇子のうち、誰を皇太子に立てるか決断していないが、皇子が三人とも成人すれば、誰を皇太子にする気なのかと問う声が、家臣達からも上がるだろう。


 龍翔としては、龍誠が成人するまでの数年の猶予の間に、少しでも己の政治的な基盤を強めたいところだが……。


 実際には、禁呪をかけられ、王都からは追いやられ、未だに禁呪をかけた術師も捕らえられていないというていたらくだ。


「……お兄様?」


 思惑の海に沈んでいた龍翔は初華の声に我に返った。


「すまぬ。少し余計なことを考えておった……」

 妹に視線を向け、言を次ぐ。


「わたしは男ゆえ、後宮の事情に明るくないが……。蕙妃と瓓妃が派閥争いをしている後宮では、なかなか赤子が生まれぬと聞く」


 龍翔の言葉に、初華が痛ましげに面輪を歪める。


 なぜ、後宮で赤子が生まれぬのか……。


 皇帝のお渡りがないからではない。美食と美女を味わうのを当然のものと考えている皇帝は、毎夜のごとく、あちらこちらの美姫を渡り歩いているという。


 だが、十一歳の優華を最後に、皇帝の血を引く赤子は生まれていない。


「わたしは今まで、赤子が生まれぬのは、龍耀の障害となる皇子がこれ以上現れぬよう、瓓妃が裏から手を回しているためだと考えていたのだが……」


 龍翔の言葉に、初華だけでなく、季白と安理も顔をこわばらせる。華やかな光の陰に隠された後宮の闇の冷たさに、不用意にふれてしまったかのように。


「うっへぇ~。もともときな臭い場所だとは思ってましたケド、きな臭いっていうより、血腥ちなまぐさいって言ったほうが正確かもしれないっスね……」


 安理が鼻の頭にぎゅっと皺を寄せて吐き捨てる。切れ長の目に冷ややかな侮蔑を浮かべたのは季白だ。


「陛下は蕙妃様と瓓妃様の耳障りのよい言葉を鵜呑うのみにして、後宮の統治を放棄してらっしゃいますからね。どのような悪行がはびこっていることか……」


 安理と季白の言葉にうなずいた初華が、つ、と面輪を上げて龍翔を見つめる。


「玲泉様の言葉を聞くまで、わたくしもお兄様と同じように思っておりました。ですが……。いささか、不自然ではありませんか?」

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