49 胸に宿る、きらめく星 その2


「みすみすおぬしを明順に近づけるとでも?」


 睨みつけると、玲泉は怯むことなくゆったりと微笑んだ。


「『秘密』を広めるおつもりがないのでしたら、わたしにも明順と会う権利はあるものと考えておりますが?」


 どう聞いても脅し以外の何物でもない言葉に、龍翔は視線の圧を強める。が、玲泉は柳に風とばかりに泰然としたものだ。


 『蛟家の玲泉が唯一ふれられる娘』と周囲に知られれば、明珠は嫌でも権力争いの渦中に巻き込まれるだろう。玲泉などのせいで、明珠にそんな汚らしいものを見せたくなどない。


 龍翔はひとつ吐息して口を開いた。


「同じ差し添え人の立場ゆえ、従者も含めて、顔を合わせる機会は今後もあるだろう。が、わたしがそうやすやすと大切な従者に手を出させると、侮らないでもらおうか」


「それはお言葉ですか?」


 玲泉が挑戦的な笑みをひらめかせる。

 龍翔は口の端を緩めると、真っ向から玲泉を見据えた。


「どちらかなど、手練手管に通じたおぬしなら、言わずともわかるだろう?」


 玲泉がこれ以上、余計な口を叩く前に、「季白」と忠実な従者の名を呼ぶ。


「玲泉殿は船室へ戻られるようだ。送って差し上げよ。安理、お前は初華を一度、船室へ連れて行ってやってくれ。初華の侍女達が落ち着いたら、ともに季白達の船室へ来るといい。報告はその時でよい。わたしは一足先に船室へ戻る」


 一方的に命じ、きびすを返すと、


「了解っス~♪」

 と、やけにうきうきと弾んだ安理の声が追いかけてきた。


 無人の廊下を足早に進み。


「明順、張宇。いま戻った」

 扉を開けると、並んで卓についていた明珠と張宇が、あわてた様子で立ち上がった。


「お帰りなさいませ」

 かしこまって頭を下げる二人に、「楽にするといい」と声をかける。


「張宇。安理が淡閲の街から帰ってきた。まもなく、初華や季白とともに来るだろう。隣室で控えておれ」


「かしこまりました」

 一礼した張宇が隣室へ下がる。


 張宇が退室するのを見送ってから、龍翔は明珠へと歩を進めた。楽にしてよいと言ったのに、明珠は頭を下げたまま、じっとしている。


「明珠」


 恋しい少女の名を紡いだ声は、自分でも驚くほど、甘く、柔らかい。


「は、はいっ」

 「明順」ではなく、本名を呼ばれたことに驚いたのか、明珠が弾かれたように顔を上げる。


 緊張に強張った愛らしい面輪を見た瞬間、胸が高鳴る。


 思わず華奢な身体を抱き寄せたくなって、龍翔はかろうじて自制した。かわりに、穏やかに問う。 


「張宇と待っている間、何事もなかったか?」

 龍翔の問いに、なぜか明珠の頬がうっすらと赤く染まった。


「な……、何もなかったです、はいっ」


 やけにぎくしゃくと明珠が答える。頷いた拍子に揺れた前髪の奥が、妙に紅い気がして、龍翔は思わず指を伸ばした。


 そっと指で前髪をかき分けると、額の一点が紅くなっている。


「これはいったい……? どうしたのだ?」

 尋ねると、明珠がおろおろと視線を揺らした。


「そ、その……。椅子にぶつけてしまいまして……」


「椅子に? なぜ、椅子などに……?」

 わけがわからないまま、明珠の額に唇を寄せる。


「《癒蟲ゆちゅう》」


「ひゃっ!?」

 額にくちづけ、癒蟲をび出すと、明珠が愛らしい悲鳴を上げた。


 なめらかな肌が薄桃色に染まり、熱を持つ。

 初々しい反応がいとしくて、思わず明珠の背に腕を回し、抱き寄せる。


 融けそうに熱い頬を手のひらで包み、上を向かせた面輪に唇を落とそうとすると、明珠があわてた様子でぎゅっと固く目をつむった。細い指先が、服の上から龍玉を握りしめる。


 唇を重ねた瞬間、流れ込んできた蜜の香気に陶然となる。


 理性が融けそうに思うほど甘く感じるのは、明珠に恋をしているのだと自覚したせいだろうか。


 そっと唇を離すと、熟れたすもものように顔を真っ赤にした明珠が、詰めていた息を吐く。


 熱のこもった蜜の吐息に、もう一度、愛らしい唇にくちづけたくなる。

 心を融かす蜜を思うさま味わい、たおやかな身体を抱き寄せ――。


 願うまま、腕の中の蜜を飲み干してしまいたいという衝動を、龍翔は胸の奥へと閉じ込めた。


 腕の中の大切な花。

 この花を最初に摘むのが自分でありたいという欲望は、確かにある。


 だが、同時に。


 「恋人なんていませんっ!」と真っ赤な顔で玲泉に答えていた明珠の姿を思い出す。


 明珠の心は、明珠自身のものだ。

 いくら龍翔の身分が高かろうと、明珠の主人であろうと、人の心を自由にすることは叶わない。


 明珠がまだ誰にも恋をしていないというのなら、そのまっさらな心が誰かに向けられるまで、見守っていてやりたいと思う。


 むろん、むざむざと他の男に渡す気など、欠片もないが。

 龍翔自身、自覚したばかりの恋心に戸惑っているのだ。焦る必要はない。


「明珠」

 飴玉あめだまを転がすように明珠の名を呼ぶだけで、心が浮き立ってくる。


「は、はいっ」

 ぱちりと目を開けた明珠が、真っ直ぐに龍翔を見上げる。


 磨いた黒曜石のような澄んだ瞳に、己の姿が映るだけで、喜びに心が弾む。

 軽く身を屈め、もう一度、額にくちづけると、明珠が「ひゃっ」と声を上げた。


「も、もう痛くもなんともありませんからっ! 大丈夫ですっ」


 真っ赤な顔で明珠が抗議する。手のひらが包む頬は、燃えているかのように熱い。


 額の赤みは、最初の癒蟲ですでに消えている。今のはただ、明珠が愛らしくてくちづけたかったのだと……。本人には伝えられず、代わりに別のことを口にする。


「たいしたことがなくてよかったが……。椅子にぶつけるなど、何があったのだ?」


 衝立ついたてならまだわかるが、低い位置にある椅子というのが解せない。


 尋ねると、明珠が目に見えて動揺した。

 視線が左右に揺れ、頬がさらに熱を持つ。


「そ、その……。うっかり、張宇さんの着替えを覗いてしまって、びっくりして……」


「着替え?」


 そういえば、張宇の着物が変わっていた気がする、とぼんやりと思い出す。正直、部屋に戻ってきた時は、明珠しか目に入っていなかった。


「ち、張宇さんは悪くないんですっ」

 明珠があわあわと言を次ぐ。


「私が張宇さんをびっくりさせてしまったせいなので、その……」


 明珠の長いまつ毛が恥ずかしそうに伏せられ、声がしりすぼみに見えていく。


 一瞬、くわしい事情を問いただしたい衝動に駆られたが、張宇と明珠で間違いなど起こるはずがない。


「そうか……。今後は、もう少し落ち着いて行動するのだぞ?」


 怒っていないことを示そうと、明珠の頭を優しく撫でながら告げると、真っ赤な顔のまま、明珠がこくりと頷いた。


「はい、すみません。気をつけます。その……、すみません。いつもどじを踏んで、龍翔様にご迷惑をかけてしまって……」


 明珠がへにゃりと眉を下げ、泣き出しそうな顔になる。龍翔は笑ってふたたび頭を撫でた。


「よい。気にするな。お前がいつも懸命に務めてくれているのは知っておる」


 この天真爛漫な少女を、龍翔の都合だけで無理やり変えようとは思わない。


 ……少なくとも今は。

 ゆえに。


「いつまで、こそこそとしておる? 待っておっても、何も起こらぬぞ?」


 扉の向こうへ声をかけると、隣室へ通じる内扉が薄く開いた。

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